子どもの本質
2012.05.16 Wednesday
当たり前だが、大人は昔は子どもだった。しかし、自分が大人になり、特に教師あるいは人の親になると、案外昔の自分が持っていた「子どもの本質」を忘れてしまうことが多い。わが生徒わが子可愛さで見えなくなってしまうのだ。
子どもは純粋で無知である。物の道理もわかっていない。例外なく精神的に弱く甘ったれだ。自制がきかず、自分の欲求を押さえられない。自分を守るための嘘は平気でつくし、その時の気分で平気で人も裏切る。思慮分別などはないのが当然である。そう、悪い言い方だが、基本的に子どもは「愛すべきバカ」なのであり、「教育すべきバカ」なのである。
そういうことが分からずに、よく「子どもは大人を見抜いている」とか、「子どもは天使だ(さすがにこれはないか・笑)」とか言う大人はよほど子どもの本質がわかっていないし、自信が子どもの頃をすっかり忘れてしまっている。外見の可愛さにすっかりやられてしまっているのである。オマエはガキの頃、大人を見抜いていたのか?お前は天使だったのか?真っ正直に素直に生きていたか?本当にそう思うのなら、車や家を買う時に、どれにするか選ぶのも、ローンを組むのも子どもに決めさせてみればよい。投票するときは子どもが決めた議員に投票してみればよい。
情けないのは、子どもが自分に都合よく述べるもっともらしい理屈や、さも反省しているような演技に対して「おおお、あなたはそこまで考えてるのね」「あああ、なんて健気なの」などと、涙さえ流さんばかりに術中に嵌る大人は、教育現場の先生はもちろん実の親でさえ見かける。
昔の話だが、1人っ子でかわいがられたのであろう、ある男子の塾生の親が、中3に上がる前に「退塾」の旨を伝えてきた。何でも理由は、自分は陸上競技の道で進学するので中3ではそちらに専念したいというものだった。この子は以前にも学校でやっているもう1つの厳しい部活を同様の理由で辞めている。確かに、本人が専念したいと言っている陸上競技においては、地域では成績がよかった。しかし、俺は知っていた。その陸上の練習は全然ハードなものではないことを。自分の好きなことをやりながら、小さな努力で大きな成果を得られ、周囲からの賞賛も受けることができる。こんなに「おいしい」ことはない。しかし、そのお母さんはたぶん「よく自分でそこまで決断したね。えらいね。」ぐらい思ったのだろう。「子どもがそう決めたみたいで・・・」と繰り返し言った。
幸い、この生徒には最後に話す機会があった。親が、一応挨拶に行きなさいと言ったようだった。学校の部活を辞める時に顧問を丸め込み、親を丸め込むことに成功した彼は、あまり怒られるタイプではない。いわゆる「うまい」振る舞いを身に着けているのである。俺は退塾を止めるつもりはまったくなかったが、この生徒の今後を案じた。このままでは、こいつはとんでもないバカになると確信していたからだ。だから、これまで彼の周囲の大人が誰も言わなかった「真実」を彼に話さないと、と思った。
彼が塾にやってきて話が始まる。
生徒「先生、母から聞いたと思いますが・・・」
俺「うん、聞いてる。で、一応、理由は何だっけ?」
生徒「この塾に入って、すごく成績もよくなって。先生のおかげです。でも、今後は陸上に専念しようと思っていて。それに、中3になってみんなが真剣に受験に向かう時に、自分みたいな中途半端な人間がいたら迷惑をかけてしまいますし・・・」
俺はここまで聞いてガックリした。彼にではなく、周囲の大人にである。この程度の理屈に、学校の先生や親は見事にだまされたのか、と。「じゃあ、ちょっと俺から最後に話をしていい?」。彼の話が一通り終わったところで、俺の話をはじめた。
「塾をやめる前に1つだけ言っておきたい。その前に、はっきりさせておきたいのは、俺はこれまで君がうまくやり込めた大人とは違うってことな。それと、退塾の理由がちがうはずだから、それもはっきりさせておこうぜ。」
彼は一瞬「え?この人は何を言ってるんだろう?という不思議な表情をしたが、俺は気にせず続けた。
「あのな。君が辞めるのは陸上に専念するからじゃないよ。陸上の練習なんて、週2回ぐらいの夜にちょこっとやってるだけだ。まあ、それで陸上の成績がいいのは、今のところ君の素質だな。素質はあるんだろう。それで、辞める理由ね。学校の部活を辞める時も、そして今、塾を辞めるのも、理由は陸上に専念するからとか、塾に迷惑をかけるから・・・・そんな綺麗じゃないだろ?なあ?言えよ、正直に。こんな理由がいつまでも通用するのは、君のためにならない。なあ?」
彼は1度つばを飲み込むような仕草をして黙って俺の方を見ている。
「じゃあ、言おうか?君が学校の部活を辞めたのも、今塾を辞めるのも、『つらいから、やりたくない』。それが理由な。それに加え、今回は『友だちと遊びたいから』だよ。それだけ。陸上とか迷惑とかそんなものまったく関係ないことだ。そこはっきりさせないと。そこはっきりしないとさ、君は自分のことがわからないだろ?君のきれいごとの言い訳がいつまでも通ると、君が『つらいことから逃げる人間だ』ということがぼやけるじゃん?辞める理由なんて別に何でもいい。でも、嘘はダメだ。もう1度言うぞ?君が学校の部活を辞めたのも、今回塾を辞めるのも、理由は『つらいから』だ。厳しい環境でスポーツや勉強をやるよりも、たいして汗もかかずにチヤホヤされて友だちと遊びたい。それが理由だよ。まあ、基本的に君は、きついことを続けることができないんだよ。それが真相だ。それが君にわかればいいんだ。はい、俺からはそれだけ。じゃあね。」
その数日後、彼は「もう1度やらせてください」と塾に戻ってきた。そして、1か月後、なんと退部した学校の部活にも復帰した。これには学校の部活の先生も驚いたらしい(別に俺は何も言っていないので、俺も驚いた)。塾は結局最後まで在籍した。もちろん、この1件があったから、彼の根本が変わったなんてことはないだろう。これからもいろんな場面で同じようにするのかもしれない。でも、「つらいことは辞める」という自分のこれまでの歴史を彼自身が塗り替えたことは事実だし、自分でも自覚していなかった「大人をだます体のいい理屈」つまり「ごまかし」がはじめて通じなかった経験をしたことで、この先同じような場面でわずかな「ひっかかり」はできると思う。
これはたまたま本人に気付かせることができた稀なケースだった。実際は、俺のこれまでの経験では、こちらが見抜いて指摘したとしても、親が気付いていないために子どもの保護に走り、子どもの心にまでは届かずに終わることの方が多い。こういう「ごまかしの術」を洗練させながら大人になる子どもは少なくないと思う。
かわいそうだから
2012.05.14 Monday
塾に限らず、集団での習い事なら、そこに厳然とした「上手」「下手」は存在してしまう。運動会なら「1等」と「ビリ」が出る。演劇なら「主役」と「端役」がある。部活なら「選手」と「補欠」だ。俺たちの時代であれば、中学の時から試験の学年順位、クラス順位が出ていた。
そういう中で、子どもは「情けない気持ち」「恥ずかしい気持ち」を知る。そこで奮い立つ者は試行錯誤し、我慢・努力をしながら上達を覚え、同時に精神面が強くなる。しかし、それなのに、だ。世の大人は安っぽい愛情で、この機会を子どもから奪う。
「かわいそうだから」
これが理由だ。
俺の塾でもこれまで数人いた。他の生徒と比べて理解が遅かったり、努力が足りなかったり、あるいは途中から入塾したりで俺から指導(怒られること)が多い生徒の親が言うのである。
「いつも怒られてかわいそうだからやめます」
「うちの子には雰囲気が合わないようです・・・」
「うちの子は勉強を楽しくやりたいみたいで・・・」
これは結局、親が「かわいそうだから」と、子どもの気持ちを代弁しているのだ。確かに子どもは怒られては泣き、残されては泣き、家で覚えられずに泣く事もあるだろう。さらには、自分だけできなかったり、当てられて答えられなかったりして恥をかくこともあるだろう。
でもな。何でこれが「かわいそう」なことなんだ?
強く前進しようとする力は、あるいはその先にある本当の自信とか自尊心とか価値観は、劣等感や恥ずかしい思いをした経験が核の1つになっているんじゃないのか?
「お前はダメだ」
こういう他者からの否定を受け入れながらも必死に抗い、悲しみ、奮い立つことからはじめて築き上がる「心」がある。それを幼少期に取り去ってしまい、何でもかんでも「いいいんだよ」「ありのままのあなたが素敵なのよ」と、気色悪いことを言われ続けてきた無菌状態の子どもたちに、いったいどれほどの耐性や生命力が育つというのか。ひとたび怒られたらイジケてしまい、その相手に「あの人は嫌い」としか感じない心。甘い味が好き、苦い味が嫌、楽しいことが好き、楽しくないことは嫌、やさしい先生が好き、厳しい先生は嫌…。そんな貧弱な基礎でできた人間が、いつまでも通じる人生などない。劣等意識を持つ、恥ずかしい思いをする。この上なく貴重な経験なのに、なぜ親や教師にはそれを奪う人間が多いのか。
俺は入塾前に親と面談して、子どもについてのヒアリングをする。いつも驚くことは、親は自分の子どもの性格をかなり的確に把握していることである。つまり、自分の子どものことを「まるで自分のことのように」よくわかっている。だからいけない。子どもとあまりに一心同体になりすぎ、同化しているのだ。子どもが怒られた心の痛みを、自分の痛みにしているのである。放っておけばいいのに。
確かに親は自分の子どものことがよくわかっている。しかし、それが行き過ぎて「子どもの成長のために必要なこと」やその先のプロセスが見えていない親は多い。巷で見かける「怒る」と「叱る」を細分化して定義づけるようなせこい手法、「ほめて伸ばしましょう」のような下心丸出しの手法は、間違いなく心が弱い子どもや大切な価値観が欠落した子どもを大量に出している。
「バカじゃないのか!?」
「お前はほんっとダメだな!」
「何をやってる!恥を知れ!」
「何でできないんだ?」
きっと、子どもたちに必要な劣等意識や恥ずかしさを痛烈に知らせるこれらの言葉は、今やこの日本にほとんど存在しないのかもしれない。
だが、俺の塾にはしっかりある。絶対に必要だと思うからだ。
「いただく」ことと「盗む」ことはちがう
2012.05.12 Saturday
このテーマも以前書いたが、内容は違うと思うのでご容赦願いたい。
結構ブログをやってきて、自分や自分の塾に関していろんなことを率直に書いてきた。そしてまた、他の方が書かれる内容でいろいろなことも得た。
特にその人が実践していることについて具体的に手法を書くのは、「商売」という観点からするとあまり賢いことではないのかもしれない。ただ、俺は自分の小さな塾でやっていることを、大げさに「企業ヒミツ」なんてセコイことを考えると、つまらないブログしか書けなくなると思っている。また、俺と同じように、いろいろな手法やアイデアを惜しげもなく出して書かれている先生方に対する、俺なりの礼儀でもある。
さて、そうやって俺はこの数年間他の先生のブログから非常にありがたい情報を「いただいて」きた。その「いただいた」ものいくつかは、俺の塾でありがたく活用させてもらっている。俺は「いただく」ときは、必ず自分のブログにそのことを書くか、その先生にコメントなり、直接お話しなりをする。どの先生も「どうぞどうそ、いいですよ」と寛大な心で許してくださる。俺も逆に言われたこともあるが、当然、俺の返事もまた同様である。そう、「使わせてもらっていいですか?」と言われて「いやダメだ」「使うなら金払え」なんて人がそもそもブログに書いたりはしないのだ。
ただ、そういう寛大な先生方でも「許せない」と憤慨されることがある。それは「いただく」のではなく、黙って盗む(パクる)輩に対してである。これまで数件聞いたが、まあ、ロクでもない。ひとこと断りを言えば問題ないのに、それをこっそり黙って盗んで自分の塾にチャッカリ取り入れている。さも自分のオリジナルのような顔をして。おそらくそういう人間には罪の意識はもちろん、心の痛みもまったくない。言わば「手癖が悪い」のを自覚していないのだから当然だ。しかし、そういう人はどの面下げて子どもや保護者に偉そうなことを言っているのだろう?甚だ不思議だ。
以前、ある塾の話を聞いていて驚いた。俺を含め、いろんな人の「パクリだらけ」なのである。もちろん、俺自身は断りを入れられたことはないので、他の先生たちに対してもそうだろう。それ以外でも、以前ブログにも書いたが、本当に悪気なくだと思うが、人の言葉やアイデア、手法をタダであるのをいいことに平気でパクりまくってて使うヤツを数人知っている。しかしまあ、こういう人は意外に多いんだろうな。そしてまた、こういうヤツに限って、自分の情報は「企業ヒミツです」とホザいたり、指摘しても「いや、あれは実は僕も丁度同じことを考えていたんです」とか、「いや、インスパイアはされましたけど決してパクってはいません」などと言ったりするのだろう。下手をすれば自分がパクったものを、他人に有料で売りつけるような勢いさえある(笑)。
もちろん、盗人本人及び擁護派なら「そんなガタガタ言うんだったら最初からブログに書くな」という人もいるだろう。理屈ではその通りだ。しかし、これは理屈ではなく道義上の問題。自分でそういう行為をして恥ずかしいか恥ずかしくないか、つまり「恥」に対する考え方の違いである。
「ごまかす弱さ」は人間の本性
2012.05.11 Friday
物事が上達する上で欠かせないものの1つは言わずと知れた練習量。ただ、その量の中で「質の違い」が個々に出てきてしまうのは、その個人の人間性の問題である。手を抜くか抜かないか、最後までやるかやらないか。限界にきても力を振り絞るのか、力を抜いてしまうのか。これは何も子どもの問題だけではない。俺たち大人だって、仕事や日常生活でそれを突きつけられているのである。
子どもに勉強の指導をする上で、大切なことではあるが、簡単には行かないことがある。生徒に自学指導するときに最も重要かつ、自覚させるのが難しいのは
「間違いを直す」
「反復する」
の2つだ。
塾を休まないこと、私語をしないとか、姿勢正しくやる、文字を丁寧に書くということは「体」のことなので、指導する側の強制力や規則によりある程度正していくことはできる。しかし、「間違いを直す」「反復する」というのは、生徒の内面、つまり「精神」「良心」「積極性」に依存する割合が高く、なかなか指導する側が入り込めず、見極めや正確な把握が困難な領域がある。言い換えれば、生徒はいくらでもごまかすことができるので、指導する側が望む100%をやってくれない可能性の方が高い。
「やり直し」や「反復」を指導する側が忘れてはならないのは、そもそも人間の本性として、何事も「前に進みたい」のが常であり、1度やったことを反復するような「立ち止まり」や、やったこと、さらには間違いを自分で見つけて直すという「後戻り」は本来苦痛極まりない活動なのだということだ。案外、指導する者はこの人間の本性を理解していない。理由は明白だ。指導者自身が普段そういう環境に身を置いていないから、他人には観念的に「やれ」「できる」としか思わないのである。これを100%に近づけるためには、人徳であれ、強制力(ただし工夫されたもの)であれ、指導する側が生徒から絶大なる信頼を得ることしかない。
ついつい間違い直しをザッと形だけやる、ついつい反復回数を少なくする。これが同じ環境下で「プロセスの質」の差を生み出してしまい、決して低くはない確率で結果の差にもつながってしまう。
塾の先生にも、この点で悩んでいる人は多いと思う。どんなに強制してもダメだった、どんなに説教してもダメだった、どんなシステムを作っても・・・・。先にも書いたが、このことは人間の本性に関わることなので、なかなか簡単なことではない。俺も実際、現場で100%うまく行くことはなかなかない。
しかし、どういう指導をしても、何を試みてもダメという人がいたら、その原因は手段ではないと思う。
それは、指導するあなた自身に「ごまかす弱さ」があるからである。日々の生活や仕事の姿勢を振り返ってみればよい。たぶん、あなたが生徒にダメ出しをするような「同じこと」を、あなたもやっているはずだ。発信者の心根に「努力に対するごまかし」が存在するのに、他人(生徒)に対してだけ「ごまかすな」というのは、どんな手段を講じても到底伝わらないだろう。そもそも根っこが間違っているのだから手段にも無理や無茶苦茶などの瑕疵がある。自身のごまかしに気付いていないのだから、まず、自身のそれを自覚して直してから(あるいは直しながら)手段を打つべきだ。
教科書のこと(英語)
2012.05.09 Wednesday
教科書が手に入ってやっと俺の塾では通常の授業になった。英語に関して言えば例年なら春休みからガンガン教科書を使って授業をしていたので、この時期なら2課分(教科書によっては「プログラム」「レッスン」「ユニット」など呼び方は様々)は軽く終えるのだが、今年度に関しては現在各学年ともにようやく1課分が終わったところ。
手応えとしては、やっぱりこれまでより量が多くなったし、質も上がったのでその分解説に時間がかかるね。一方、学校の方はいつもと同じタイミングで教科書に入ったにもかかわらず、各学校ともに授業速度は例年の0.5倍、つまり、遅い。試験範囲もほとんどの学校で各学年ともに中間考査は1課以内。出遅れた俺からしてみれば助かった。
俺の塾の生徒たちはホライズン。中3だけは例外でクラウンの生徒が混じっている。以前から何度も書いているが、俺は英語の予習を一切せず、初見で教科書の精読授業に入る。今年度は教科書が変わった最初の年なので、その新鮮さ、緊張感が何より楽しい。
1課を終えたところでの感想を、数日前のブログよりも少し具体的に書きたい。
まず、明らかに以前よりも「文法重視」を意識した本文構成になっている。俺たちの時代に劣らず、新出文法が入った文をしつこく並べてある。いいことだ。そして従来の「会話」も意識されていて、バランスはいい。本編の内容も「時事問題」を扱っているので、時事に即した英単語にもなじむことができるだけでなく、英語を学びながら社会の学習にも役立つ。(たとえば中2のユニット1は盲導犬の話)
それだけでなく「長文読解」を目的としたページが、途中にある。(中3では民族衣装の話がユニット1のすぐ後に出てきて、これがまた良い内容)
思わず、先のユニットまで読みたくなるが、楽しみがなくなるので文法の配列だけさっと目を通して本文は我慢(笑)。
そして、これまでになかったページの1つ。これは驚いたね。新出文法がある程度登場したところで「まとめと練習」というページになり、そのページの文法解説が従来の教科書のそれとは比較にならないほどすごくわかりやすいのだ。あのね、教科書にここまでされたら、市販の参考書や塾の先生の説明が「わかりやす〜い!」って言われるのは難しくなるぞ、ホント。逆に、説明がヘタクソな先生や塾に行かない独学の生徒にはありがたいページだ。
あと、中1英語ね。いいんだけど、ユニット1までの道のり(ウォームアップ)が長すぎる(笑)。出会いと別れの挨拶→教室で使う英語→アルファベットと単語→英語の音とつづり→数字→週→月日→色→ローマ字(名前)・・・・でやっとユニット1だよ。まあ、最初の試験では書かせる問題ではなく、聞き取りが中心になるだろうけどね。最初に出てくる26個の単語のチョイスも、そのほとんどが「発音を聞けばどこかで聞いたことがある英語」、つまり既に日本の日常生活で使われている英語になっているものだ。この辺の配慮も、従来以上によくなっていると思う。
文法や語法のレベルアップで言えば、中3の受動態で助動詞がある受動態が出てきているし、中2ではユニット2で、早々とvisitやstayの名詞用法がさりげなく登場している。
最後に、中2のユニット1で個人的にすごくシビれた文。
We can be like Jenny. She's very helpful. Let's help people, too.
Jennyというのは引退した盲導犬で、引退後の活動についての感想を生徒が述べた文なんだけど、最後の文の「too」がどこにかかるのか、訳がどうなるかってことね。これは、なかなかやりますよ。俺はもちろん塾で解説したけど、こういうの学校ではちゃんと説明してもらいたい。
せっかく教科書がここまでよくなったのだから、中学生にはできるだけ教科書の素材をしっかり味わってほしい。時々、教科書指導にガイドを使う先生がいるが、俺は昔からガイド否定派だ(少なくとも中学では)。最も抵抗があるのが、発音をカタカナで表記していて発音記号および正しい音読の指導に支障が出ることと、訳が意訳1本で「構造に即した直訳→意訳」の流れを生徒に意識させられないこと。本当に力量が高い先生でガイドを推奨する人に会ったことがない。まあでも、これも随分前の話で、20年ぐらいガイドを見ていないから、ガイドも今はすごく進化しているのかもしれないけど。
プロ野球のブルース
2012.05.06 Sunday
プロ野球球団が田舎、とりわけ娯楽の少ない地域にできると、やはり地域の人たちはみんな楽しみにするんだなあ。
俺がよく利用する、塾の近くの定食屋。そこは常にテレビがついていて、ホークス戦をマスターやお客さんが観戦している。俺なんかはとっくの昔にプロ野球熱が冷めてしまった人間なので、地元ホークスに対しての思い入れも全然ないのだが、やはり地元の年輩の方たちは「郷土愛」がある年代なんだろうね。新垣の復活に、まるで自分の親戚のように喜んだり、和田や川崎などメジャーに行った選手に対してもいつも心配してるしね。若手の頑張っている選手や、怪我から復活した苦労人などを見る目は親のように温かい。あ、ただ、活躍しない外国人選手や、高年棒もらってるベテランが凡打した時なんかはかなり厳しい声が飛ぶけどね(笑)。
さて、なぜ急にプロ野球のことを書こうと思ったのかというと、横浜DeNaベイスターズを見ていて思うところがあったからだ。その定食屋でも最近話題に上っていたし、スポーツ新聞や週刊誌などを見る限りにおいても、ベイスターズや中畑清監督についての評価は非常に冷たく厳しい。もっとも聞くのが
「監督があんなに目立ってバカじゃないのか?」
「弱いくせにパフォーマンスばっかりじゃないか」
というもの。
ちなみに、野球談議させてもらえれば、俺は正直、主力が次々と抜けたあの戦力に加え、中畑が監督になった時点で、今期のベイスターズは最下位間違いなしだと思ったし、それは今も変わらない。解説者時代、コーチ時代のコメントなどを見て素人ながらにも、中畑の監督手腕は高くないと思う。監督としての話題に反して弱小チームを率いる過去のイメージとして重なるのは、西武ライオンズの根本監督、ロッテの有藤監督、近鉄の鈴木監督、阪神の村山監督、ダイエーホークス時代の田淵監督、楽天1年目の田尾監督あたりだ。しかも、たった2年契約なんでしょ?2年連続最下位の可能性は濃厚だと思う。まあ、とにかく、中畑監督の連日のパフォーマンスに顔をしかめる野球ファンは多い気がする。
でもね、俺は中畑すごいなあ、と思うよ。みんな感じないかな。顔をよーくみてみ。あのアホみたいなパフォーマンス、かなり無理してやってるじゃん。目は笑ってないもん。ちょっと気の毒になることがあるぐらい。球団売却に揺れた一件、フロント不信による主力の流出、監督解任など、何かとトラブルが多く、はっきり言ってチーム全体が暗いムード一色だ。中畑はそんな期待を持てる要素が見当たらないチームのことを、よくわかっているんじゃないのかな。しかも、やっとめぐってきた初の監督の仕事なのに、たった2年でこの戦力でどうにかしろってのは、素人が見たって不可能に近いのはわかるよね。弱くて暗いチームにはだれも注目しないし、地元民でさえも関心を失くすだろう。そうすると、自分の役割としてできることは何か。自分が広告塔、ある時は道化師となってでも、ファンに注目してもらい、マスコミにも注目してもらう。これ、すごく球団としてもチームとしてもありがたいことだよな。プロっていうのはもちろん勝たなきゃダメだけど、注目してもらわなきゃしょうがないんだよね。それに、自分が顰蹙買うぐらい目立てば、負けた時の批判もほとんど自分1人に向けられるでしょ?それによってコーチとか選手はずいぶん守られると思うよ。
だれもが戦力不足だと思った状況からAクラス争いや優勝までさせるヤクルト時代の野村や落合のような手腕を求めるのは酷というもの。それを考えたら、横浜は工藤と交渉が決裂した原因の1つとも言われる監督の権限の問題や、たった2年しか時間を与えないんだったら、中畑で良かったんじゃないかな。その代り、コーチがその裏で地道に若手を育てて行く責任はあるけどね。
そういえば、この前、北九州の球場でやってた巨人―横浜戦で、横浜がボロ負けしている様子を定食屋のテレビでたまたま見た。そこにいたオッチャンたちは「やっぱり横浜は弱いなあ」とか言いながら笑ってたけど、そのボロボロに打たれていた横浜のピッチャーね。・・・名前は覚えていないけど、たぶん全国区ではない若手だと思うけど、すごくいい球投げてたよ。
選手としても別に好きではなかったし、たぶん指導者としても「?」だと思うけど、今の中畑は本当によくやってるよなあと思うよ。きっとたくさん負けると思うし(笑)、地元でも賛否両論(もしくは否が多い)かもしれないけど、頑張ってほしいよな。俺、中畑を密かに応援しようと思ってる。
バカ言っちゃいけないよ
2012.05.01 Tuesday
塾はサービス業なんて言うけど、それは何らかの志がある個人塾(特に1教室でやっている塾)には今一つ当てはまらない気がする。「お客様=神様」的な顧客満足だけを求めることはできないし、ちょっと古いがノードストロームのような姿勢でやると却ってトラブルを生むからね。まあ、少なくとも俺は子どもを親から預かるけれども、子どもは塾に入った瞬間から「生徒」であってお客様と捉えることはまずない。じゃあ、保護者がお客様かといえば、確かに俺の塾にお金を払ってくれるわけだから、ありがたいし責任も感じるけど、それも違う。第一、はじめから親の顔色を見てやってないからね。だから、問い合わせや、入塾してからも、俺の判断で「バカ言っちゃいけない!」と思うことはできるだけズバズバ言う。結局、その方が後々お互い面倒なことを回避できると思うからね。
やっぱりね。自分が「力になりたい」と思う子ども、その保護者を相手にする方がこちらのモチベーションにもいいし、無駄なストレスもフリーだ。おかしいものは、やっぱおかしいからな。
これまでを少し思い起こすと・・・
たとえば、何年か前、直接来客で授業見学してもらった保護者(母親)でこんな人がいた。とにかく、こちらが使うテキストや模試、あるいは確認テストまでをいちいち細かく聞きたいということで、俺も全部答えたんだけど、まあ、見た感じとか、同じ学校の塾生によると同業者ではなさそう。ということは、自分はある程度塾に詳しいぞ、変な塾ならすぐに見抜くぞ、みたいな自信がおありだったんだろうね。でもね、さすがにこの場面のこのセリフはおかしいよ。
保「厳しいし指導とは、たとえばどんな指導なんですか?」
俺「そうですね・・・確認テストに合格しなければ、合格するまで残って追試とかですね」
保「それは何時まででもってことですか?」
俺「ええ。遅い子は11時過ぎます。12時を超える場合もあります。」
保「それは迷惑ですね。こちらも生活圏がありますから」
ははは。何だ生活圏って!とも思ったが、こりゃだめだと思った。問い合わせの段階でこちらのルールを迷惑だなんて面と向かって言う神経はタダ者じゃないね。そう思われるなら、入塾はやめた方がいいし、こちらからお断りしますときっぱり伝えた。
あとは、退塾規定について聞いてきた親もいたな。「学校や塾で他人の心身を傷つける行為があった時」についてだった。「それは、学校でそのようなことがあったという情報を得たら、先生(俺)は事実関係を確認することなく、それを鵜呑みにされるんですか?」みたいに聞かれたから、俺は「もちろん総合的にこちらで判断して、最終的には私が決めます。」と言ったけどね。何だよ、その心配は!と思ったね。
こういうのもいたな。「うちの娘は中1なんですが、この塾の中1にはどなたがいるか知りたいので名簿見せてください」。一瞬、絶句した。よくこんなこと恥ずかしげもなく言えるもんだよ。
あとは、これは塾に入った後でも時々あるケースだが、部活の遅刻は認めているものの、電話はしてもらうようにしている。こちらとしては、だいたいその生徒が何時ぐらいに塾に到着するか知ることによって、授業のペースや内容を微調整するためだ。そこにきて、「部活の遅刻は毎回連絡しなきゃダメですか?」というもの。
「当たり前だ!」っつの(笑)。
そもそも決められた開始時間を守ることなんて、少なくとも日本では社会の常識中の常識だろ?それに、こっちは1分でも時間が惜しいわけだからなおさらだ。だから、連絡なしのいわゆる無断遅刻に関してはかなり厳しく対応する。
これも随分前だが、以前俺に無断遅刻で怒られた生徒の親が「ほんの少し遅れただけでも、怒られちゃうんですか?」と聞いてきて、心底呆れたこともあったな。「当然です!」と言ったけど。しかしなあ、これは言わなかったが、それはあなたが普段何かしらの行事なりイベントで「少しぐらい遅れたっていいじゃない?えへっ!」というみっともない姿勢であるということを露呈してるもんだぞ(笑)。
相手が親だろうが、客だろうが神様だろうがさ。おかしいもんはおかしいっていう姿勢は、直接伝える、伝えないはどっちでもいいんだけど、自分の心の中では少なくともはっきりさせとかないとね。
知恵や工夫は「不自由」からひねり出される
2012.04.28 Saturday
老若男女を問わず、と言いたいところだが、まあ何らかの「欲」が残存する限りの層において、お猿さん程度のものから高等テクまで、窮地にある人間はさまざまな嘘や言い訳をするが、それは大なり小なり自分が困難に晒されたことによる防衛本能である。このような防衛本能も、安易な逃げとして悪く使われれば「相手をだます言動」につながり、健全な努力の果てに良い方向に使われれば「知恵」「工夫」を生む。
たとえば、俺の塾を例にしてみよう。俺の塾は主に中学生を専門にしているが、塾講師の立場で最も理想なのは「中学校が1つ」の状態だ。学校の進度や定期試験にもドンピシャ合わせられる。よほど下手を打たない限り、そこに通う塾生や保護者はそれだけでも1つの安心を得られるだろう。
俺の塾は少人数塾にもかかわらず、その学校数は年によっては5校を超えることもある。どう考えてもすべての学校の進度、定期試験にドンピシャ合わせることは不可能だ。学校別のクラス分けも人的問題により不可能なら、1つの中学だけを対象に募集することもまた経営的問題により不可能である。さらに、少人数の中においても、生徒の実力レベルはおよそ3層に分かれている。
麻雀に例えるならば、アガリ手がイメージしにくいかなり厳しい配牌である。しかし、ここからどうにかして、満貫以上のアガリに持っていかなければならない。こういう場合、麻雀なら第1に自分の技術(工夫)が不可欠だ。しかし、それだけでは望ましくない配牌から満貫手に持っていくのは難しい。もう1つ必要なことがある。それは経験による運(流れ)の読みまたは呼び込み(相手から鳴くなど)、つまり他力を頼ることである。俺の塾においては、俺の技術(知識)という自分の内にある資源を使うことが肝要ではあるが、やはりそれだけでは今までの運営は到底果たせなかっただろう。麻雀と同じように流れを読み、流れを作りながら「他力」に頼ることが必要だった。
俺の塾運営の場合の「他力」、それは「生徒」である。生徒自身の意識が喚起され、行動が起き、それが継続されるように塾設計のハード面から雰囲気づくりのソフト面まで「流れを作って」きた。その結果、定期試験においては学校別の細部指導ではなく主に「勉強法」を伝えるやり方となった。さらに、進度はとにかく最も速い学校を想定して進め、特に理社は内容を忘れないように「板書授業」でノートを作ることにした。その代償として、個人塾としては生命線ともいえる「確認テスト」を俺の塾ではほとんど実施することはできない。問題演習は、ほぼ完全に「生徒任せ」なのである。国語に至っては学校準拠の授業はまったくせず、定期試験においては勉強法の伝授のみである。
考えてみれば、俺はもともと塾講師のはじまりが「英語講師」。それが5教科すべて教えていること自体、非常に不自由なことだ。しかし、開業前までの準備期間から今に至るまで、それなりに熱い汗、冷たい汗をかいては時に足を止められせっぱ詰り、そこから知恵や工夫をひねり出してきた。
極端な話、1つの中学校対象に英語だけを教える塾講師の俺と、経営をしながら複数中学の全教科を指導する塾長としての俺では天地の差が出るほど知恵や工夫を出す必要性が異なる。そういう意味では、この不自由で不遇な環境が、どれだけ自分に力を湧き出させてくれたかわからない。ちなみに、俺の場合「生徒の力を引き出す」という高尚な指導をめざしていたわけではなく、偶然か必然か「やむを得ずそうするしかなかった」という産物が多かった。
不自由を嘆くな。その中で腐らず自助努力せよ。そこからひねり出された知恵や工夫は必ず己を助け、利他にもなる。
おせ〜っつの
2012.04.27 Friday
学校の教科書がやっと手に入った。
ここは九州だから遅かったのか?
これでやっと本腰入れて授業ができるってもんだ(別にそれまで流して授業やってたわけではないぞ)。
まず、やっぱり英語ね。開校以来ずっとサンシャインだったのが、ホライズンに変わった。以前は文法の配列等、教える側からの不満も聞こえていたホライズンだったが、今回、教科書で授業やってみてちょっと感動したね。
すごくいい。うん、すごくいいよ。
まず、まちがいなく単語量・英文の量が増加している。それに加え、英文の質、つまり難度がかなり上がっている。巻末資料などもいい。高校レベルと言っていいものも以前より多くなっているので、これで中学英語と高校英語の噛み合わせがだいぶ改善されるんじゃないかな。
はっきり言って、昨年までとの比較はもちろん、俺らの時代の中学英語よりもレベルは間違いなく高くなっている。
教科書を使って授業をするのがメインの俺からしてみれば、毎回の授業が楽しくなることは間違いない。
ただ、心配な点がある。
学校の先生、ちゃんと教科書使ってくださいね(笑)。
地理は増えて、昔みたいになったなあ。内容としては望ましいが、後は授業する側の時間が勝負だ。
理科、これは昨年までも移行措置で内容は変わっていないということらしいが、やはり教科書の質が高くなってるね。内容がいいし、詳しい。これなら公立レベルなら他の参考書はいらないかもね。
あと、国語。三省堂なのだが、どの学年も最初に古典を持ってきているあたり、昔々の国語教育に戻っているような意志を感じる。たぶん、最初にガンガン音読して暗唱して・・・という昔の学生が勉強したスタイルだな。
子どもの頭がよくなるために重要な「教科書」、この質が良くなることは大いに結構なことだね。あとは、これで授業する学校・塾が、教科書に負けないようにしないとね。
しかし、こりゃあ、なかなかなモンだと思うよ。
空っぽワード
2012.04.24 Tuesday
「教育業界を取り巻く厳しい環境」
「ゆとり教育の弊害」
「不景気」
「少子化」
「差別化」
「二極化」
「大手の寡占化」
「個の時代」
「パラダイムシフト」
こういうもう、ずーーーーーっと前から言われているような言葉をね。
もしも、未だに繰り返し熱弁する人間がいたら要注意だ。
まず、発信者も中身空っぽ。
加えて、こんな言葉をウンウン頷いて耳を傾ける聞き手も中身空っぽだ。
端的な表現で言えば、発信者は詐欺、受け手はバカです。
そう、いずれにしても残念な方々でございます。
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