できない子には「途中がない」

俺の塾に入ってくる生徒の大半は、成績が下がってから来る生徒だが、頭の回転(理解力、暗記力)がよく、単に勉強する機会がなかっただけの生徒はほとんど問題なく上がる。(むろん、ある程度まで上がってからは個人差が大きいが)

しかし、学年に1人ぐらいは「上げにくい生徒」がいる。俺は学習能力に何らかの深刻な困難がある場合を除いては、上から下までどんなレベルの生徒でも学力を伸ばし点数を上げてきた自負はある。そうは言ってもやはり、こちらが相当骨を折る生徒が毎年1人はいることは確かだ。この手の生徒を教えるのは指導者のこちらも大きな負担を強いられる。時間的にも手間も、シビアな見方をすれば他の生徒と同じ月謝ではとても間尺に合わないぐらいの労力を使う。

熱心な塾講師の方なら、たぶん1度はこんな経験があるはずだ。

ヤル気がないとか、素直でないとか、塾をよく休む生徒なら論外だ。しかし、彼ら(できない生徒)の多くは基本的に素直で塾も休まない。単語テスト等の確認テストも一生懸命覚えてきている。詰め込みが効く定期試験であればそこそこいい結果が出るのだが、実力系のテストになると途端に大崩れし、数週間もすれば1度覚えたはずの内容もきれいさっぱり忘れてしまっている。

単純暗記についてもそうだ。たとえば一問一答を同じように勉強しても、その場ではきちんと覚えられる。しかし、できない生徒は少し問題の文言や設定が変えられただけで答えられなくなる。この状況で、生徒側に責任転嫁はできない。「なぜだ・・・なぜだ・・・」と指導者は悩みながら時間だけが過ぎてゆく。

計算ができない生徒は途中式を書かない。いきなり答えを書いてまちがえる。途中式を書くように強く促すと、数問は何とか書く。しかし、次の授業ではまた途中式を書かなくなる。やり直しもそうだ。間違えた問題は「なぜ間違えたのか」をきちんとメモし、1度自分で解き直したら次へ進むように指示していても、必ず何問かは「わからないまま通過」している。
「お前は楽をしたいんだろう!」「いつまでそうやってズルをする気だ!」「わからないところをそのままにしないという、こんな簡単なことさえできないのなら塾をやめてしまえ!」

俺も分析が浅い頃はこうやって生徒を怒鳴りつけて泣かしてばかりいた。しかし俺はある時、1人のできない生徒の動きを観察していて1つの仮説を立てた。「もしかして、できない子には『途中』がないのかもしれない」。

素振りを100本する。同じ100本でも「ただ、回数をこなす」場合は、1本目と2本目の間、2本目と3本目の間には何もなく100本まで行くだろう。一方、「相手の動きや球の軌道をイメージしながら振る」場合は、0本目から1本目、1本目から2本目の間に「途中」がある。効果には大きな差が出るだろう。

リズムを取る。「ワン ツー 、ワン ツー」とリズムを取るならば、そこには深みは何も感じられない。深くリズムを取れる人は同じ拍数の中で「ワン(カッ)ツー 、ワン(カッ)ツー」さらには「ワン(カッカッ)ツー、ワン(カッカッ)ツー」という取り方をする。「ワン」「ツー」の間に本来ならばないはずの「途中」が存在するかしないかでリズムの深みは断然変わってきてしまう。

もしかしたら、素振りにしても、リズムにしても「見えない(聞こえない)途中をイメージできるかどうか」は資質の部分に関わることなのかもしれない。しかし、俺は訓練によってある程度まではできるようになると思う。

計算問題で√8=2√2と覚えることがあるとしても、歴史で1221年=承久の乱と覚えるとしても同じことが言える。その場での暗記ならばそれほどの差は出ない。しかし、できない子は途中がないので応用は効かず、そこで記憶が死んでしまう。あくまでイメージとしての話だが、できない子は「ワン ツー」のリズムと同じで文字そのままを丸暗記する。恐らくできる子は√8と2√2の間に「√8(=√2×2×2=√2の2乗×2)=2√2」があり、1221年と承久の乱の間に「1221年(=鎌倉時代=北条氏の執権政治⇔後鳥羽上皇)=承久の乱」という途中が入っているはずだ。その途中部分がだんだん速く処理されていくうちに無意識の中にまで溶け込んでしまい、一見「ない」ように思えるだけだ。

できない子は授業中も「答え」に執着する傾向がある。途中は(どうでも)いいから、とにかく答えを知りたい。答えに執着すると「過程(答えに至るまでの着想から手順)」は等閑になり、はては「設問」への関心も薄まってしまう。そうなると応用が利かないのは必然だ。反対に、できる生徒は、過程や途中、設問への意識が強いがゆえに応用力があると言ってもいい。

目標設定もそうだ。できない子の目標は現状とあまりにかけ離れて(高くなりすぎて)いることが多く、結果的に「口だけ番長」になりやすい。いい結果を求める気持ちがある反面、そこまでのストローク、つまり「途中」を現実的にイメージできないからだろう。

ところで、「反復」という勉強法がある。「反復」は学習で有効な手段だ。これはあらゆる分野の指導者にとって異論はないだろう。しかし、人間は本来1度やってしまったものには興味を失い、当然、省みることもない性質があるように思う。そう考えると、「反復」そのものが人間の感情に逆行する行為と言えるかもしれない。それなら反復が有効で単純な手段でありながら、徹底する人が少ない理由もわかる。武道や芸事では、「反復」によって人が自然に持ち合わせる感情に逆らい、「稽古」という反復によって技の習得と同時に精神修養もできるようになるのだろう。できない子の反復は「作業化」しやすい。彼らは「やった回数(よくても答えが合う回数)」に意識が偏り、「問われている内容を深める」ことができていない。「反復にも『途中』を持て!」。俺が最近生徒によく言うことばである。問題と答えの間に存在する途中を意識しながら反復すること。そして、何度目であっても「1回目」のフレッシュな気持ちで取り組むことだ。そうすれば、同じ問題を解いていても2回目では1回目の時には見えなかった新しい発見がある。

「できない子には『途中がない』のではないか」。俺にとっては大きな発見である。たぶん、この「途中」は、おもに思考力と想像力で構成されている。こういう生徒は実は多いのではないか。そしてまた、こういう生徒を「気合いが足りない」と一刀両断にしてきた俺のような指導者がたくさんいるのかもしれない。

できない生徒を教えるのは決して楽ではない。いや、正直に言って苦しい。思うように進まず腹が立つこともある。彼らにとって存在しない「途中」を構築するのは、ひ弱な更地に建築物を拵えるような困難を極める作業だ。

藤山寛美だったと思うが、娘に「自分を死ぬほどいじめた人間が、自分を1番鍛えてくれるんだ」と言っていたらしい。なかなかできるようにならない、彼らのような生徒を教える機会があったから、今の俺がある。

そう。俺を苦しめた「『途中』のない生徒たち」は、間違いなく指導者としての俺に「途中」をつくってくれたんだ。




 
ロカビリー * 教務のブルース * 19:08 * comments(8) * -

大根役者

先日、見回りの「つぶやき」について書いた。俺の塾はこれまで1人でやってきて、生徒との距離は「遠い」。というのは、生徒はほとんど俺に雑談を持ちかけないし、プライベートな相談事(勉強以外)に関しても数えるほどしか受けたことがないからだ。どうしても怒られる印象、厳しい指導の印象が強いこともあるし、俺と生徒の年齢の差もある。生徒にとって俺は「話し(かけ)やすい先生」では決してない。よって、俺と「会話をする」というのは普通のことではないのである。そのような中でも、俺に屈託なく壁をつくらず話しかけてくる生徒がたまにいる。こういう子どもを見ると、性格がよく、将来きっと上司に可愛がられるだろうと想像できる。

通常、俺と生徒が言葉を交わすのは、だいたい4つの場面しかない。「入室のあいさつ」「学校進度を生徒に尋ねる時」「授業中の発問と応答(質問対応)」「帰りのあいさつ」。その他のことで話すのは、俺が生徒に何か聞きたいことがある場合か、生徒が何か俺に用事がある場合ぐらいだ。他の塾と比べても、たぶん会話は少ない方だと思う。塾の仕事を「接客業」だと思えば、俺の方から積極的に話しかけ、盛り上げるように努めるべきだろう。しかし、俺にはその気持ちがないし、そういう役割を演じる必要性も感じない。生徒と言葉を交わすことにおいては基本的に「指導(授業)だけ」でよいと考えている。

ところで、生徒の士気を高める声掛けには大きく2種類ある。ネガティブな声掛けとポジティブな声掛けだ。ネガティブな声掛けは、たとえば「これを覚えないと、テストでは酷い点数になるぞ(入試に落ちるぞ)!」のような脅し文句だ。ポジティブな声掛けは、たとえば「君いいねえ!すごいねえ!よくできたぞ!」のような褒める言葉がけである。昨今「ほめる指導」が日本全国を席巻していて、塾に限らず各分野の指導者は「ほめる指導」を主としているように思える。塾や学校関係者の間でも、上記のような「〇〇しないと△△になるぞ!」という声掛け自体が否定的に見られることも少なくない。

俺に関してはどうか。俺はどちらの声掛けもしている。上記のネガティブな声掛けもよくする。それをいけないと思ったことはないし、やめようと思ったこともない。もちろん、授業の後に「言い過ぎたかな・・」と思うことはあるが、生徒への声掛けや意識の変革を促すときに「褒める指導をしなければ」と思ったことは1度もない。悪い結果につながることが予期できれば「このままだと成績が下がるぞ(落ちるぞ)」でいい。

先生という仕事は「役者の心」が必要だと言われる。そういう意味で言えば俺は演技ができない大根役者だ。俺の場合、生徒に言葉をかけるときには「感情に任せる」。腹が立ったら厳しい言葉を投げつけるし、よく頑張ったら称賛する。何か手伝ってくれたらお礼を言う。腹が立った時に笑顔でいることはできないし、絶賛したい気持ちを抑えることもできない。面白くないのに笑えないし、腹も立っていないのに怒ることもできない。いや、できないことはないが「しない」のである。

生徒や保護者に大切な話をする時、説教をするとき、俺は予め内容を考えたり、ましてや原稿を書いたりすることはない。すべてその場の感情に任せて話をする。アドリブだ。この姿勢は、俺の授業やこのブログを書くスタンスにも共通している。俺の場合、予め何かを考えたり演技しようとした瞬間に「自分の言葉が死ぬ」のがわかる。吐いた瞬間に後悔するほど言葉が生きていないのだ。人間は感情的になって発した言葉に後悔することが多い。しかし、俺は感情がない言葉を発してしまって後悔したことの方が多い。俺の死んだ言葉は塾の教室に空しく響き、多少は生徒の鼓膜を振動させるかもしれないが、たぶん生徒の心には届かない。

そんな俺が自分から声を掛ける場合がある。生徒が不安に思っているときだ。たとえば、途中入塾の生徒には、特定の教科が悪い、あるいはどの教科とも点数が低迷して入塾してくる場合がある。教えてみて確かに基本が抜けていることは多いが、その生徒の理解力が悪くなく、性格も素直そうな場合俺はその生徒に声を掛ける。というより、そういう子の不安そうな顔を見ると声を掛けたくなる。

今、君は〇〇(教科名)の点数が悪くて苦手意識持ってるよね?でも、僕が少し教えてみて君ができないとは思わないんだよ。たぶん成績は上がるよ。それほど時間もかからないと思う。ただ、いくつか直さないといけないところがある。それをきちんと直してくれたら必ず上がる。どう?上げたい?よし。それなら頑張ろう。悪いところを直すために厳しいことも言うけど辛抱して頑張ってね。絶対に上げるから。

もちろん俺の本心だ。言われた生徒は俺の前だから大きな声で返事をしたり派手な頷きをしたりはしない。しかし、たいていこういう場合、生徒の顔が変わるのが分かる。声は発さなくとも「はい!頑張ります!」と眼差しが語っているのを感じる。

感情を抑え、理性で語るのが大人なのかもしれない。しかし俺は、生徒へ向ける言葉は、時として子どもよりも子どもっぽく、感情的に、ストレートなものを投げ込みたい。対人援助にも技術が必要なことは知っている。しかし、プロ失格と言われようとも、どんな技術も自分の感情の延長上でやりたい。

つまり俺は大根役者。相手の感情を移入させるような気の利いた演技ができないので、これからも自分の感情に任せて言葉をかけるしかない。










 
ロカビリー * 教務のブルース * 20:00 * comments(0) * -

塾のルール

「勉強を教える」というほぼ共通の目的がありながら、その理念や方針は塾の数だけ多様にある。塾の中で適用される「ルール」もそうだ。今日は、俺の塾のルールについて書く。

まず、俺は塾運営において「ルールは少ない方がいい」という考えを持っている。理想論になるが、最低限のルールで自由度や自律度が高い空間をつくりたい。しかし、そこは小中学生相手の塾。彼らは無知であり、理性や自らを律する力においては未成熟な子どもたちである。だからどうしても「ルール」が必要になる。では、地域でも群を抜いて厳しい塾という評判のわが塾のルールはどれほどのものか。

俺の塾には「塾規定」を18条まで明文化している。ただ、これは主に「保護者向けのもの」だ。1人でやっている個人塾でこのようなものを作っているところをあまり知らないので珍しいのかもしれないが、やはり保護者との「契約」についてはきちんとしておきたかった。つい昨日、別のところでご質問があったので項目だけでも紹介したい(さすがに全文は大変すぎる)

【第1条】指導姿勢
【第2条】塾へ通う手段
【第3条】通常授業
【第4条】特訓(講習)
【第5条】模擬試験
【第6条】休講
【第7条】臨時授業
【第8条】遅刻・欠席・早退
【第9条】授業延長
【第10条】授業料の支払い
【第11条】保護者面談
【第12条】自主退塾
【第13条】退塾言い渡し
【第14条】塾からの電話
【第15条】携帯電話所持およびインターネット・メールの使用
【第16条】安全配慮義務
【第17条】守秘義務
【第18条】塾内への持ち込みおよび使用禁止

こんな感じだ。

続いて生徒向け。生徒には「心得」を3つ定めている。

「積極姿勢」

これは俺の塾で最も重要なことだ。塾に入ってくるとき、帰る時に必ず「声を出して」挨拶をする。あいさつについてはこれだけで、授業開始や終了時のあいさつはやっていない。塾には時々、来客者がいることがある。塾の下の階で外部の人とすれ違うことがあるかもしれない。そういう場合も必ず挨拶をしなさいと伝えてある。余談だが、俺の塾ではいつからかトイレを借りる時に「トイレを借ります」、使い終ると「ありがとうございました」という習慣ができた。これは俺が命じたものではなく、自然にそうなった。このことは多くの来客の方が驚かれる。あとは「面倒くさい」「難しい」「やりたくない」「いやだ」などの否定的な言葉を発しないこと。塾内で他者(学校の先生、友人、親、他塾など)の悪口を言わないこと。

「柔軟思考」

困難があっても諦めずに、視点や発想を変えて柔軟に取り組むこと。勉強を楽しむこと。

「実現努力」

自分で決めた目標を実現するための努力を惜しまないこと。妥協しないこと。

以上だ。少ない。

これ以外に生徒に強調しているものとしては、たとえば規定の8条にある「遅刻欠席」について。

これについてはかなりうるさい。特に欠席は原則「熱が38度以上・嘔吐下痢が激しい・インフルエンザその他感染症・入院・親族の葬儀」のみ認めることになっている。これほど容体は悪くないが体調が思わしくないときは1度塾に来て授業を受け、容体が改善されなかったり悪くなったりして、こちらが無理だと判断した場合には早退してもらうことになっている。遅刻については、部活動等やむを得ない場合には必ず「授業開始前に保護者が連絡する」ことになっている。授業開始前に連絡のない遅刻は無断遅刻とみなされる。

「帰りの寄り道」について。
これも規定の16条にもあるが、かなり厳しく定めている(1発退塾の可能性あり)。

あとは、たとえば「服装」について。
これは意外にも・・・ない。自由な服装で構わない。

「塾内の飲食」について。
もちろん授業中の飲食は認めていない。休み時間に各自が持参した飲み物を口にするのは自由。食事に関しては、部活動等で食事をする時間がなかった生徒には、授業前や休み時間に廊下のソファで摂ることを許可している。また、長時間勉強会等では食事の時間を取って、教室で食べてよいことにしている。

上記のこと以外では、筆記用具や文房具についての指導、授業中の姿勢の指導などはあるし、休み時間に大騒ぎしたり、モノを投げたり、口笛なんかを吹いたら当然注意されるが、こういうケースは10年でほとんどない。
(入塾当初は姿勢の指導は割と多い)


ルールは多ければいいものではないし、多ければ秩序が保てるわけではない。それよりも、必要最低限のルールを徹底させることによって、その周辺のことにまで規律精神が波及した方が良い。つまり、ルールにはなくても「していいことか、いけないことか」を彼らが普段の雰囲気、隣の仲間、あるいはこれまでの俺の教えを照らし合わせて解釈し、感じ取るのである。子どもは未熟ではあるが、本当に大事なことをしっかり教え込んでおけば、そこから「感じ取る力」はある。ただし、それを教え込む人間、彼らの模範となるような人間がいなければそれは困難を極める。

ブログの読者の中には、俺が軍隊のようなガチガチに縛りつけた指導をして、生徒たちはブラック企業の異様なムードの朝礼のようにデカい声を出し、大リーグ養成ギブスを着用せられ、おまけに変なヘルメットを被せられ、北朝鮮のマスゲームを髣髴とさせるような動きをしていると誤解されている方もいるかもしれない。確かに生徒は俺を怖がっている。これまで経験したことがない怒られ方をして泣くこともある。クラスによっては休み時間も話さない学年もあるし、俺が冗談を言ってもまったく表情を変えないつれないクラスもある(笑)。しかし、実際に身に来られた方たちはおわかりだと思うが、生徒たちが抑圧され、萎縮しているような感じはない・・・はずである(笑)。

繰り返すが、子どもには絶対にルールは必要だ。しかし「ルールがたくさんあればよい」わけではない。そんなことをしているとルールや禁止事項を際限なく増やさなければならなくなるだろう。そうではなく最低限のルールを徹底的に叩き込み、あとは彼らがそれを正しく解釈して、ルール以外のところまで感じ取れるような場をつくっていくことが重要なのである。


 
ロカビリー * 教務のブルース * 22:25 * comments(0) * -

地味すぎて気付かれない「つぶやき」指導

現在、友人(副塾長)と毎晩のように授業の後話をしている。主に経営のことと教務指導のことだが、個人塾にとって圧倒的に重要なのは教務指導である。教務指導がすなわち塾の品質であり、究極的には個人塾の商品は塾長自身だ。商品価値を高めるためには、人間的に「この人にならついて行きたい」「この人になら子どもを預けてもいい」と思われる立ち居振る舞いや言動が必要である。もちろん、それだけではいけない。大前提として「塾の品質」つまり授業や指導がしっかりしていなければならない。

友人はこれまで2つの塾で講師経験がある。しかし今、俺の塾に来て俺と話をすると「いや・・・これまでそういうことを意識したことがなかった・・」と驚くことが多い。そのような反応を見る度に、俺は他の塾との「指導の違い」「品質の違い」をあらためて確認することができるし、だからこそこんなに激しい指導でも10年やってこれたのだと思う。そして、友人にもぜひ1つでも多くのことを感じ取ってもらい、自分のものにしてほしいと思っている。

今、友人はできるだけ俺の授業を見るようにしている。ただ、授業を見る時に「何を感じるか」というのは、見る側の意識の範囲内のものに限定される。意識が広がり感度が高まらなければ、何度か授業を見るうちに「だいたいわかった」と思うようになる。しかし、実はその段階でも見落としていることや感じ取っていないことは少なくない。なかなか感じ取ってもらえない時、見てもらう側から「今度はそこを見ておいてくれ」と言われてはじめて気が付くこともある。授業を見ることや、そこから何を感じ取るかは、それ自体が「能力」なのだ。

友人も、もうだいぶ俺の授業を見てきた。俺は自分の授業にいくつも「意識」を入れていて、それこそが俺の授業の肝になっている。しかし、それはまったく派手さがないものばかりなので、友人にもなかなか気が付いてもらえないことがある。友人の名誉のために言っておくが、彼が鈍感なわけではないのでそれだけ「気が付きにくい」ことなのかもしれない。

たとえばつい先日、授業後に俺の授業について話をしていて、俺の方から「これ気が付いてた?」と確認してみたことが3つほどあったが、やはり気が付いていなかった。このことは、俺にとって指導の上でものすごく重要なことであるが、たぶん普通の講師の人はあまり意識されないのかもしれない。

まず生徒の質問である。

長い読者の方にはご存知の通り、俺は生徒にとっては「超コワい先生」だ。俺は別になりたくてなったわけではないが、自然にそうなってしまった。一方、友人は「優しい先生」である。友人のことを「厳しい先生」と認識している生徒や保護者は少しぐらいいたとしても「コワい先生」と思っている人はほとんどいないと思う。

授業の後、俺と友人の会話。

俺「俺が教えているクラス。この前卒業した高1や今の中3なんだけど、よく質問すると思わない?」

友人「そう言えばそうだね」

俺「お前のクラス、質問が少ないよな?何でだと思う?」

友人「あー・・」

俺「言っとくけど、中3だからとか、たまたま俺が持っている生徒の性格とか、そういうのじゃないから。」

普通に考えたら、生徒にとって俺の方が絶対に質問しづらい。そもそも、生徒には「先生に質問をする」という習慣がほとんどない。学校の授業で質問するのは、どちらかといえば「普通ではないこと」だ。たいていの子どもはその習慣をそのまま塾に持ち込む。だから、友人がいくら優しい先生でも「質問をしない」方が当たりまえだ。そこに来てさらに、これまで出会ったことがないような恐ろしい塾長に生徒が質問をすることができるのか。言うまでもなく、学習において「質問」は極めて重要なことの1つだ。ただ、これを学習者が行うことは、指導者が思っている以上に相当に難しい。なぜなら、「質問」は学習者の勉強に対する高度な積極姿勢の表れだからだ。もし、これを生徒が自発的に習慣的にするようになれば、学習効果の劇的なアップになる。それが俺にはできて、友人にはできていない。友人のクラスの生徒は授業が終わったらすぐに帰る子が多いが、俺のクラスの生徒は授業が終わってもほとんどの生徒が残って、しばらくは勉強を続けて質問があれば俺を呼ぶ。たとえ授業の技術が同じぐらいだとしても、この「質問」への空気の醸成のちがいでその後のレベルアップに雲泥の差が出てしまうことは言うまでもない。授業の合間や最後に「じゃあ、質問ある人手を挙げてー?」なんて言って、無反応な生徒たちを見て「よしよし、みんな俺の授業をわかってくれたか」なんて慢心していては、生徒の力を伸ばすことはできない。

次は「サブリミナル的つぶやき」だ。

俺は演習の時間を長くとるので、見回りは多い。俺は見回りながらブツブツとつぶやいている。それは独り言ではなく、意識的にボソボソとつぶやいているのである。計算の演習中は「はい、スピードね、スピード意識」「カッコの前のマイナス注意だよ、カッコの前のマイナス注意」、英語なら「はい、三単現と時制ね、意識して、三単現と時制」「名詞の処理に注意、名詞の処理に注意」。こういうことを繰り返し繰り返し、見回りをしながら何度もつぶやく。もちろん小さな声だが、生徒は演習に集中しているので、このぐらいの小さな声でも入って行っているはずだ。

あとは「終わり方」についてだ。

俺は常々、生徒には「間違えた問題は、どこが間違えたのかを必ず分析、解決し、それをノートにメモしてから解き直しをするように。分析や解決できない場合は僕を呼ぶように。」と指導している。しかし、生徒全員がこれをやってくれるまでには、相当に辛抱強い指導が必要だ。人間はできれば自分の間違いと向き合いたくないし、できない生徒ほど、はやく勉強を終えたい気持ちが強い。そうすると、上記の内容の途中を省き「間違えた問題 →やり直し」という手順でやろうとする。つまり、どこをなぜまちがえたのか、ポイントは何だったのかの分析と解決がされないまま、ややもすれば「答えを暗記してやり直し」という効果のない形式的なやり直しになってしまう。指導者も一見するときちんとやっているように見えるために、それを見逃してしまう。

俺は時間が来て演習をストップさせるときに

はい、ここからの時間大事。間違えた問題の処理、この時間が1番大事だよ。」

とブツブツつぶやきながら歩き回る。さらに、やり直しに入った生徒やノートを片付けようとしている生徒に声を掛け

もう終わった?間違えた問題は原因わかった?そう、ちょっとノート見せて。・・・ああ、ここダメだ。ここはね、こういう書き方じゃなくてね。ほら見て、これだと間違った原因やポイントになってないじゃん?わかる?こういう場合は、こういう風に書いて・・。ね?これで初めて解決だよ。ここからやり直しに移行すればしっかり理解につながるからね。

という具合に「間違えた問題の処理」が意味のないただの作業にならないようにしている。

演習中の「つぶやき」や、演習後の「つぶやき」は、俺の指導には欠かせない重要なことである。








 
ロカビリー * 教務のブルース * 18:38 * comments(0) * -

ゆえに指導は奥が深い

 最近は塾の生徒の成績をブログに書かなくなった(数字としてはそれほど大きな変化がないため)が、久しぶりに先日集計が終わった2学期期末試
験の塾内平均を記す。

(中1)平均414点
(中2)平均422点
(中3)平均420.4

数年前と比較すると、各学年ともに15点〜25点程度下がっている。要因としては、もちろん新課程になり内容が増えたこともある。在籍する生徒の学力面は年によって多少のばらつきはあるが、うちの塾は、小学生や中1のはじめから在籍している生徒を除いて、5教科の合計で言えば300点台で途中入塾するケースが最も多く、400点台や200点台がごくたまにいる。

塾を開いて8年目だが、指導内容としては「定期試験対応」の割合を年々減らし、「実力テスト」に強くなることをめざしてやってきた。定期試験に関しては、塾に依存した勉強ではなくできるだけ早期に「自分で勉強する」スタイルを身につけさせること。これに力を入れている。

具体的には、中1、中2までに定期試験の教科別の勉強のやり方(あくまで自学の方法)を細かく指導し、試験前の勉強会では俺の前でそれを実践してもらい、個別にアドバイスをする。また、家では実践ができずにいる生徒には、試験の相当前から自習に来ることを促し、家でやる勉強内容の計画立てや遂行のチェックを入れる。そして、中3ではどの学校も進度が遅いこともあり、塾ではどんどん先に進むため、定期試験用の授業や対策はほぼゼロとなる。(試験前の数回の授業は塾の進度を止めて自習および質問の時間にする程度のことはする)

使用教材にしても、「準拠」はほとんどない。

(中1・中2)英語(準拠2冊+教科書)、数学(非準拠2冊)、国語(非準拠1冊)、理科(非準拠2冊)、社会(非準拠2冊)。

(中3)英語(準拠1冊+非準拠2冊+教科書)、数学(非準拠2冊)、国語(非準拠1冊)、理科(非準拠5冊)、社会(非準拠4冊)。※注意:中3の教材には中1と中2のころの教材を引き続き使っているものも一部含まれている。3年から入塾する生徒には、3年生用の教材以外にこちらが指定した1,2年の教材は購入してもらっている。

と、このような感じ。塾としては持たせる教材の数は多い方ではないだろうか。

ご覧のように英語以外は中1からほぼ「非準拠」となっている。移行期のはじめは、特に中1ではベッタリ定期試験の対策をやってもらっていて中2になってこの形態になった代の生徒は戸惑っていたが、だんだんとこれが定着してきた。

定期試験の塾内平均が下がることも当然予想した。実際、450点を超える生徒は数年前よりも減ったし、内申(通知表)の評定も前に比べればやや下がったかもしれない。ただ、いずれも想定内である。

一方で、定期試験内容をせずに実力試験を伸ばしたいという思惑は、なかなか思うようにはいかない。中2まで実施するI社の全国模試では偏差値60を超える生徒が増えたわけでもなく、トップ校の合格者が激増したわけでもない。ちなみに中3の模試は県入試に即した模試を実施しているが、中2までのI社の模試の偏差値とはだいたい「+5」ぐらいの差があるとみている。

定期試験完全対応型にすることによる弊害を、俺なりに感じたことがあって今のスタイルに変えてきたわけであるが、まだまだ道半ば、納得の行く状態にまで作り込めていない。ただ、自分で考え、俺に相談し、自学の時間を増やして頑張る生徒たちは確実に増えてきたように思う。何度も話題に出して申し訳ないが、今年の7期生の中3は、過去最弱の学力だと言ってきたが、塾で自習をする回数や時間数においては過去最高である。それだけではなく、これまで中2が塾の日以外に自習に来るというのはレアケースであったが、昨年あたりから少しずつ見られるようになった。

俺の授業にしても、毎年、新しい発見と大きな手ごたえがある。「うああ、この授業、昔の生徒にもやってあげたかった!でも、あの時は思いつかなかったからなあ。」という後悔の念が湧くうちは自分がまだ進化している証拠だ。一方で、今教えていても「ん・・・もっとこう、パーッと生徒の視界が開けるような方法を提示できないのか・・」ともどかしい気持ちを感じることもある。

毎年毎年、常に「最高の指導」をめざして、今年もまた試行錯誤を繰り返しながらやっている。指導というものは実に奥が深い。この仕事を続ける限りは当然、どんどん掘り下げながら追求して行きたい。まだまだ塾生たち(全体)を、俺が思い描くような、骨太でシャープな筋肉質の勉強集団にして行きたい。





ロカビリー * 教務のブルース * 16:51 * comments(4) * -

周期

 塾をやっていて不思議なことの1つは、生徒の学力や雰囲気において「楽しみな年」と「厳しい年」がほぼ1年ごとにやってくることだ。これは昔、俺が関東で塾講師をやっていた時にも感じたことである。

今年の中3は7期生になるのだが、これまで全体的に意識が高く、学力の成長も順調だったのは「1期、3期、6期」のメンバーで、意識や行動面でなかなか改善や成長が見られず、説教をする回数も退塾者も特に多かった年が「2期、4期、5期」のメンバーだった。

指導というものは単純に、生徒の学力が高いから「ラク」で、学力が低いから「苦労する」わけでもないのだが、それぞれの学力の生徒たちが、自分の目標に向かい、こちらの指導を全面的に信じてついてきてくれるかどうかは非常に大きい。つまり、こちらが覚えて来いと言ったことを期日までにしっかりと覚え、ここは必ず復習しておくようにと言った時には必ず復習する素直で真面目な姿勢だ。また、特に中3には優先的に自習室を開放しているので、自習に来る頻度や時間も年によって、また個人によっても違う。こちらが「やっておいたほうがいいよ」と投げかけた言葉を「先生がそう言うのなら、ここは絶対にやっておこう」と思うのか、「『やっておいたほうがいい』ってことは強制ではないから、別にやらなくても怒られないってことだよね」と思うのか。子どものレベルの意識とはだいたいこんなところで如実に出てしまう。

先ほど、学力の高低と指導の苦楽はあまり関係ないと言ったが、正直に言うと、俺の塾に限って言えばそれは無関係とは言えない、なぜなら、俺の塾は開校当初から「○○高校(公立トップ校)をめざす塾」と標榜しているからである。開校した8年前も今も、ここまで学区トップの高校名を明確に出して、
そこを目ざしますという塾はほとんど見かけない。大きな理由として、そういう風に全面的に出すことによるデメリットが大きいことがあると思う。たとえば、それによって入塾しようとする生徒や家庭が限定されてしまうこともあるだろう。また、言うのは自由でタダだが、もしもまったくお話にならないようなお粗末な実績を出してしまうと一気に「あそこは口だけか」と愛想を尽かされる可能性もあるかもしれない。

もちろん、それらのことをすべて考えた上で、自信があるから宣言したわけであるが、現実は、入塾時から成績に関してトップ校レベルの生徒が小さな個人塾に押し寄せることはない。そのような生徒は年に1人いればいい方で、実際は成績が中の上、あるいは中位の層を徹底的に鍛え上げ、トップ校に押し込む。成績が学校平均以下の生徒も少なくない。そういう生徒の場合は、さすがにトップ校は難しくても、最終的には本人も親もまさか行けるとは思っていなかったような高校、言い換えれば、「僕はこの高校ぐらいに行ければいい」「うちの子はこのぐらいの高校しか行けないだろうから」の少なくとも1ランク上、できれば2ランク上の高校に行けるぐらいにはしたいという思いがある。

クラス分けも、入塾選抜試験もできないので、個人の資質がトップ校から離れていれば離れているほど、こちらは彼らに多くの負荷を課さなければならなくなる。その負荷は物理的な勉強量であったり、甘い意識を引き上げるための厳しい叱責だったりさまざまだ。いくらこちらが「勝てる方法」を知っていても、その作戦を遂行するためには必要な学力が必要であり、その学力を支えるものは「勉強時間」という生徒個人の投資である。

ごく平均的な中学生なので、こちらが何も言わなくとも勉強してくれる生徒は少ない。だからこそ、働きかけや時には脅しも必要になる。それでも、家に帰ると塾のテンションはすっかり忘れてテレビなどに興じてしまい、それでまた学力成長のない1日を積み重ねてしまう。そこにまた俺が切り込み、場合によっては彼らの日常生活や性格の否定までして気付かせ、動かさなければならないのである。

当然そうなると「明るく楽しい塾生活」ではなくなるので、途中脱落者はどうしても出てくる。それでも、俺は看板を掲げている以上、そしてまた、それを期待して俺の塾の門を叩き、自ら志望校を口にしている生徒がいる以上妥協は許されない。

今年度の7期生は、歴代の受験生の中で最も厳しい学年である。中2までの模試(注:中2までの模試はI社の全国模試を使用)では偏差値60台が0人ということも珍しくなく、全体的に英数国の低さが目立つ学年だった。分布としては偏差値50台前〜中に集中する学年である。知識の定着も悪く、悪いだけならまだしも、それを改善しようという危機感や行動力が起きない結果、中1の終わりごろから幾度となく長時間説教をしてきた。各中学の成績においても、ほぼ全員が第2グループ以下(わが県の公立中学では個人順位を出さないため、451〜500点が何人という得点段階別の成績表になっている)だった。

その彼らが中3になり、3名ほどの脱落者を出してしまったが、前回の11月模試で1つの目標だった塾内平均偏差値60を突破した。7名しかいない中3だが、そのうちの6名が偏差値60を超えたことは、2年生までの彼らのことを考えると大きな進歩であることはまちがいない。中3から受験するこの県模試結果も、第1回から偏差値1〜2刻みで平均を上げてきた。個人個人で見ればアップダウンが大きい生徒小さい生徒はいるが、いまだ継続中である「トップ校偏差値到達者ゼロ」の状態からもうあと一歩のところまで来た。学校の成績でも、第1グループに入ってくる生徒が出てきた。

そのような成長が見られる一方で、先日、公立入試の内申を決する期末試験が終わったのだが、この最後の重要な定期試験で多くの生徒が失敗している。中間試験の結果が概ね良好だったので、期末も高得点を取って、入試では1ポイントでも内申点を有利にしておこうという作戦はもろくも崩れた。まあ、こういうところこそ、7期生を表しているといえばそうなのだが。

いずれにしてもあと数週間後に内申点が出る。今週からは最後の保護者面談を行う。そこでこれまでの模試結果と学習姿勢を鑑みた可能性を率直に話し、あとは保護者と本人に決めてもらう。

当初、7期生は7人のうち5人がトップ校を志願していたが、1人がスポーツ系に進むために学区外の公立を受験することになり、さらに1人は模試偏差値の開きが大きすぎるために自ら1ランク下の2番手校に変更した。残りの3人はいずれも偏差値が足りない。さらにその中の1人は内申点も5ポイントほど足りない。この時期、楽観視しなくても毎年1人ぐらいは「このまま行けば無事にトップ校に受かるだろう」という生徒はいたが、今年は本当に1人もいない。つまり、3人とも五分五分未満の可能性の中にいる。模試はあと2回だ。

いつもは俺もこの辺からストレスや緊張がピークにまで高まるのだが、今年度に関してはもう4月の時点からその状態が続いている。頭髪の量は一気に減少したように思う。昨年度の6期生を指導した疲労が抜け切れないままの状態で新年度に入ったこともあり、今年度は少しでも時間があれば「とにかく寝る」ことを心がけてきた。先月からは、冷え性と全身の筋肉の硬直の改善を少しでも図ろうと、週1回のペースで鍼灸治療も受けている。

およそあと3か月。

こういう学年だからこそ、俺の腕が試される。

トップ校を目ざす塾だと公言してきたからには、絶対にトップ校に合格させなければならない。

たとえ1回でもそれができないということであれば慙愧に堪えない。忍びがたき恥である。

毎年「今年で最後」と覚悟を決めてやってきているつもりだが、今年度は特に不退転の決意で臨んでいる。
ロカビリー * 教務のブルース * 15:29 * comments(2) * -

THE SHIDO

 塾をサービス業と捉えることには異存はないが、俺はその範疇からとっくに抜け出ている。もちろん俺は「塾業界」の人間でもないし、塾屋でも塾人でもない。何者かっていうのはそれ以外のネーミングならどれだっていい。ただ、「教育」「指導」「伝授」はやっている自負がある。

俺の塾はサービス業を「辞退」しているので、塾には幸か不幸かお客様はいない。確かに子どもを預かり、保護者からはカネを頂いているが、俺の中には「お客様」という意識は1%もない。もちろん、保護者には最大の礼を払い、子どもには誠心誠意を尽くして指導にあたる。ただし、こちらが阿ることは一切ないし、下手(したて)に出ることもない。預けてくれた以上、こっちも必ず成績を上げてやるつもりでやるので、基本的には黙って俺の言うことをききなさい、俺に任せなさいというスタンスだ。

公立中学生に関して言えば、学校の平均点にも行かない子どもなど「半人前」の中学生だと思っている。こんな半人前の子どもがやれゲームを買ってくれとか、スマホを買ってくれとか言うのを聞き入れる親はどうかしている。だから俺は入塾時に必ずこの確認はする。部活にも釘をさす。成績が半人前のくせに部活を堂々とやるのかと。その他、入塾前には「休まない・休ませない」を必ず約束させるのと「容赦なく怒る(叱る)こと」「場合によっては日数無制限、期日無期限の補習をやること」も了承してもらう。もう8年もそういうことをやっているせいか、さすがに評判は定着しているようで絶対に入塾希望者殺到という状況にはならない(笑)。でも、それは俺が望むことであるし、もしも俺のこのスタンスが本当に地域に受け入れられずに経営ができないほど生徒が入って来なくなれば、俺は悪あがきせずに「ああそうですか、わかりました」とさっさと看板を下ろす。まあ、そのぐらいの覚悟で最初からやっている。

ところで、最近また中2の「半人前」が入ってきた(俺の塾のすぐそばの大手塾に半年通塾後に転塾)。うちはトップ校を狙う塾だって最初から言っているのに、なかなか意欲の高い成績優秀者が入って来ないところがまた悩ましい。しかし、小さな個人塾の場合、それは宿命みたいなもので、河原の小石からいかにダイヤモンドの原石を発見して磨き上げ、本人や親が想像もしなかったような高校に合格させたり、いかに学校の上位やトップに食い込ませたりするかが醍醐味でもある。

俺の塾で特に「半人前」への指導は厳しい。最近たまたま思いついて気に入っているからまた使うが、半人前への指導は「粘着指導」だ。とにかくネチネチ、ガミガミ、またネチネチと指導が続く。最近入った中2生も、入塾後は毎日来ている。通常授業が週3日で、残りの3日〜4日も毎日呼んでいる。当たり前だろ?勉強してなかったんだから、まずは「毎日させる」のさ。しかも、間違った自学をさせないために俺の目の前で。遠くから来ているので保護者の送迎は大変だが、それは辛抱してやってもらわないといけない。というか、こうなったのは親の責任でもあるのだから、文句は言わせない。仮にクレームが入っても俺は一歩も引かないから、観念してもらうか退塾になる。

武道と一緒で勉強でも結局「心技体」が必要でね。

毎日塾に来て勉強させる。次は「勉強のやり方」を矯正して行く。ノートは教科別に何冊必要でどのように使うか。筆記用具やマーカーペン、ボールペンはどのぐらい必要か。修正テープを用意させる。ノートの取り方も、板書で俺が色を変えたらそれは大事なところなのだから同じように色を変えること。アンダーラインや囲みをつける時にフリーハンドで汚くしないで定規をあててピシッと引く。問題を解くときは日付を書き、問題集の名前とページ番号、問題番号を書く。間違えた問題には問題集に印をつける。英語の教科書本文に訳は書かない。発音は発音記号を教え、カタカナで読み方を覚えさせない。


話の聞き方。俺が説明をはじめたら、すべての行動を止めて俺の顔を見て説明を聞く。もしも顔が下がっていたら、マーカーペンが手裏剣のように飛んでくる。ちなみに、俺の塾では話を聞きながらメモを取る動作は、顔を下げた状態が続かなければOKにしている。挨拶や返事にもうるさい。俺の顔を見ることなく挨拶や返事をすると注意される。返事も頷くだけなど論外で、話をろくすっぽ聞かずに「はい・・はい・・はい・・」と変なタイミングで返事をすると注意される。

間違えた問題の処理。間違えた答えを消さない。間違えた答えの上から正しい答えを書かない。適切な〇の大きさ、位置。質問をしたり、俺から何らかのヒントをもらったりして正解したものは〇にしないこと。やり直しは、ただ答えや解説を写すのはダメで、必ず「ポイント(考え方)」を記しておくこと。それをせずに次のページをやろうとしたら、俺のチェックが入り怒られる。あとは、質問もせずに勝手に空欄にして問題を飛ばすのも怒られる。ポイント(考え方)を記すのも、その内容を俺にチェックされる。半人前の生徒はこれもいい加減にやる傾向があり、強引にこじつけでポイントを「発明」して書いてしまう。当然、怒られてやり直し。

質問も、答えそのものを聞いて来る、あるいは問題をやっている途中で「ここまでは合ってますか?」というものは却下。そして、明らかに質問すべきところを質問しなかった場合、俺が近づいて反対に質問する。それに適切に答えられない場合は怒られる。半人前の初期の段階は「質問せずに怒られる」ことが多いので、俺の塾では塾長の俺が相当恐れられていても質問はよく出る。もちろん、最初はピントがずれたようなものも多いが、何事も経験で、だんだん質問の内容も的を射てきて深くなり、質問をすること自体の抵抗が薄くなる。

細かなところでは姿勢。肘をついたり、髪をさわったり、斜めに座っていたりする姿勢はすぐに直される。数回言われても直さない場合は罵倒されたり、癖のついた手や足を払われる。文字もそうだ。汚い字は修正を命じられ、あまりに続くと「すべて最初からやり直し」させる。

100%とは言わないが、文字を丁寧に書くことと学力は大いに関係がある。文字を丁寧に書くことで気持ちが落ち着き、テキストやノートへの集中力が高まる。そして丁寧な文字を自身で目にすることで、汚い文字の頃よりも正確な情報を得るようになる。

あと「こんなことまで?」と言われそうだが、テキストやノートの位置。自信のない半人前はノートを隠すようにして演習するが、俺から手荒く手をどけられて注意される。あと、たとえば、右利きの生徒が、問題集の左側のページを解くとき。もしもこの時、ノートは右のページを使わなければいけない状況でテキストを左手側に置いたら目の位置から遠くなる。勉強「半人前」の中学生はこの極めてやりにくいポジションをまったく変えようとせず演習をやろうとする。酷い場合はテキストをクルリと反らせるように丸めて必死で手で押さえながらやるのもいる(笑)。だから、テキストやノートの右側、左側によって、テキストを置くポジション、ノートを置くポジションを指示し、最も目に近く見やすい位置でやるように指導する。

覚えた数学の公式や英文法をすぐ忘れる生徒には単語カードを準備させ、裏と表をQ&Aにして毎回俺がそこからネチッこく出題する。


あのなあ、わかるか?これが「指導」っていうんだよ。

成績が「半人前」の中学生はここまでやって、はじめて「1人前」になって行くんだよ。おだてたり寄り添ったり、機嫌取ったり、自主性に任せたり、楽しませたり。そんな生温いことじゃあ半人前のまま飼い殺しにされる確率が高いんだよね。俺からすれば多くの塾がチラシなんかで謳っている「必ず成績を上げます」「熱血指導」なんてのは、失礼だけどママゴトみたいなレベルなんだな。

俺の塾は集団塾だけど、この辺のどんな個別指導塾よりも指導は「個別で」「細かい」はず。というか、ここまでの指導ができるはずがない。何てったって、預かった生徒を「絶対にできるようにするぞ」という覚悟と気合いと執念が別次元だと思うからね。医学的レベルで学習機能に問題がない限り、このぐらいやれば必ずできるようになるよ。

問題は、この粘着指導に本人や保護者が耐えられるか。辛抱できるか。これが一番大きいんだけどね。最初は体力的に精神的に負担が大きいことは確かだし、半人前が喜ぶような楽しいことなんて何一つないし。でも、俺は絶対の自信があるのよ。だからもし、この指導が嫌だとか怖いとか面倒だとか少しでも不満を見せたら、俺は保護者であっても怒鳴り上げて喧嘩するし、分かってくれなければスッパリお断りするよ。半人前とその親がここまでの指導されて、きついだの厳しいだの合わないだのと言うなんて、勉強なめんなよって感じだからね。しかもこっちはもし市場の価値で金に換算するなら1ケ月10万円は下らないはずのこの粘着指導を、1円の金も取らずにやってんだから(もちろん通常の授業料はもらっている)。

まあ、俺の「指導」というのは、相手の気持をできるだけ考えないようにしないとダメなんだよ。特に、成績が半人前の場合は、子どもの個性とか性格とかそんなものを考慮しちゃいけない。とにかく正しい方法と手順で「力をつけること」が最優先。子どもがきついとか、つらいとか、痛いとか、泣くとか、そういうことがあっても「そうか大丈夫だ、頑張れ乗り越えろ」と言うだけだし、親が「子どもが泣いて帰ってきます」と言って来ても「いつか笑顔になるために今泣いておきましょう」と言うだけだ。

うーん、でもやっぱり、これじゃあ永久に塾として人気が出なさそうだな(笑)。



ロカビリー * 教務のブルース * 00:36 * comments(5) * -

君たちに才能はない。しかし・・

 現在、わが塾はお盆により休校中。15日まで休みで16日から中3は合宿がある。

このブログに既に何度か書いたが、第7期生になる中3は俺の手応えとして歴代もっとも出来が厳しい生徒が揃っている。現に、これまでの定期試験や模擬試験において、個別データでも集団平均においてもそれを表している。たとえば、定期試験なら450点は当たり前に越えてくる塾生に中で、450点以上がゼロ、300点台が過去最多。模試でも平均偏差値が50台で、トップ校を志望している生徒がクラスで半数以上いるにもかかわらず、その偏差値を現時点で越えている者が誰もいない状況だ。

もともと勉強に対する積極性があまりないことに加え、中1の後半から学習姿勢が崩れ始め、授業を止めて説教する時間が多かった。現在のメンバーにも退塾寸前まで行った生徒が3名いる。


そんな彼らも、志望校を決めて4月から「彼らなりに」頑張っている。2人ほど脱落者(退塾者)が出たが、その他のメンバーたちは少しずつではあるが学習に対しての積極姿勢も見え始め、ジリジリとその成果が出始めている者もいる。


俺の塾において、生徒に対するスタンスで大切にしていることがある。「俺の本音を言葉にして伝えること」だ。こんな当たり前に思えることでも、実はなかなかできるものではない。少なくとも俺が「この人は子どもに本音を言っている」という大人を、俺は片手に余るほどしか知らない。「褒める」「叱る」なんて流行りの操縦法ではなく、俺が凄いと感じたら「すごい!」し、ダメだと感じたら「全然ダメ、話にならない!」と伝える。これまでずっとこの姿勢は貫いてきた。

今年の7期生に、盆休み前最後の授業でこれまで何度か話したことをもう1度話した。

「これまで何度も言って来たけれど、君たちはわが塾歴代下から1,2、いや、たぶんもっともレベルが低いクラスだ。はっきり言ってしまえば、勉強に関してのセンスや才能という面においては『ない』と思う。言われなければやらない、言われたこと以上はやらない、少しでも任せたらデタラメなやり方をするか楽な方法でサボる。復習をしない。だからすぐに忘れるし定着しない。確認テストも直前に勉強を始めるからいつも満点ではなく1つか2つ間違える。このままではいけないとか、創意工夫とか、そういうものがほとんどなく、『怒られるから』という危機感でしか勉強ができないのが君たちだ。だから、君たちをもうずいぶん褒めていない気がする。仕方ない、褒めることがないのに褒められないからね。ただ、夏の前半が終わり、僕は少し君たちを見直した。可能性を感じ始めている。君たちは自分で『才能がない』ことに気が付き始めている。それが行動となって表れているのは、自習に来る回数だ。君たちは中3になって自習にはよく来ているよ。しかも、『全員』自習に来ている回数としては、歴代のどの中3よりも上だ。もちろん、最初は自習に来なければ僕から何か言われるから来ていた人も多いだろう。でも、部活が佳境に入る、1学期で一番苦しい6月も7月も、コツコツ自習に来る人が多かった。夏期特訓でも全員そろっての自習が当たり前になっている。君たちにとって勉強が当たり前になり、そのレベルに到達するまでの積極性が出てきたということだ。そして何よりも『才能がない』ことを自覚した君たちが、『努力』によってそれをカバーしようとしているのがわかる。国語の作文や英作文の添削も、まあ見れるものではないほどヒドイものだが、よく持ってきている。まだまだ出来は悪いし、ほとんど成果が表れていない人もいる。しかし、僕は可能性を感じ始めている。そして、僕も君たちのお蔭で大きな挑戦ができている。これまで使った教材プリントが使えず、多くを作り直し、いつも君たちの授業のことを考えている。例年なら、僕がこの状態になるのは秋以降なんだけれども、今年はもう3月からずっとこんな感じだった。君たちに『才能がない』おかげで、君たちは努力の必要性が分かり始めて来たし、僕もいつもの年よりも意地が出て来て、腕の見せ所だという気持ちが強い。いい感じになってきた。面白くなる。だから、このいい感じをお盆休みも続けて、また合宿で会おう。」

今年はそれほど俺自身が危機感を持っている。だから1学期から彼らを例年よりも強めに引っ張ってきた。1学期に2人辞めてしまったのはそれについて来れなかったからだ。もしかしたら、あと何人かやめるのではないかと思ったが、夏の前半まで乗り切ったので、しばらく大丈夫だと思う。作戦はシンプル。周囲の中3はやっと受験勉強を本腰入れてはじめたところ。うちの7期生はその5か月前ぐらいから(時間数だけ)飛び出している。時間だけでなく、最近は内容も伴い、かみ合ってきたのでこれからもとにかく時間をしっかりかけて勉強させ、1〜2か月ごとに予定の進み具合を俺が1人1人チェックする。この作戦は、後半相当きつくなる。でも、だからといって、スパートがきくほどの『才能』を持たない彼らが勝つためには、後半バテるとかなんとか言っている場合ではない。追ってくるヤツ、自分よりも前を走るやつにしがみついてでも集団に入り込むしかない。しつこく引っ付いて行くのだ。彼らは1年生の後半から俺に何度も怒られ、個人的には相当激しく怒られても、この塾にしがみついて、俺にしがみついてきたのだ。その「しつこさ」で勝負させる。俺は俺で、彼らのサプリメントとなる授業や教材を考え、それをやらせていく。

もしかしたら、いや、別に悲観的なのではなく、可能性としては十分に考えられるが、この7期生からトップ校が1人も出なかったら、それは俺の塾始まって以来のこと。俺は自分の塾の看板を揚げる時に「〇〇高校(地域トップ校)をめざす塾」と宣言し、以後もそれを言い続け、これまでそのトップ校に1年も切らすことなく卒塾生の25%強を送り出してきた。

だからもし、今年トップ校合格が本当に「0人」のようなことになれば、俺は塾をたたもうと思う。もちろん中2以下の塾生に無責任になることがないよう、計画的・段階的にしなければならないが。毎年毎年「今年で最後」と思ってやっているのだから、そのぐらいの覚悟を持ってやらなければならない。「才能のない」7期生と運命を共にするつもりでやろう。勉強においては努力が才能を凌駕することを、逆転という形で実現し、彼らにその経験をさせたい。
ロカビリー * 教務のブルース * 21:52 * comments(0) * -

才能あっての仕事

 俺の塾は開業計画段階から対象を明確にしていた。

「中学受験をしない公立小学校の生徒」

「市内の公立中学に通う中学生」

以上だ。

これに少し補足するとすれば、小学生は高学年(5年生以上)、中学生は学区トップ校に合格するレベルの指導をして行くということぐらいだ。

国私立の中学受験をめざす小学生や、そこに通う中学生、また、公立中学生であっても教科書が異なる学区外の中学生はその対象から外していた。全国に数え切れないほどの塾がある中で、このタイプは最も一般的で多いのではないかと思う。良く言えば「もっとも参入しやすい」、悪く言えば「競争率が高い」ということになる。

地域の塾では、ここ数年対象学年をかなり広げている。元々は俺の塾と同じような対象だったはずなのに、下は小学1年生からなんて当たり前で、就学前の子どものクラスまで設定している塾。上は高校部、大学受験、社会人の資格取得試験のサポートまでするところもある。

そんな時代だが、俺は対象学年やターゲットを広げることをまったく考えていない。むしろ、開校当初は小4からの募集だったのを、数年前から小5からとし、対象を狭めているほどで、今後はさらに対象学年を絞ることも考えている。

なぜ、俺は競争率が高くなる対象学年の塾にしたのか。理由は単純だ。「負けない戦い」をするためである。競争率は高くても、公立高校入試指導であれば、たとえ相手が老舗の敏腕塾長だろうが大手のエース講師であろうが、俺が完敗を食らう確率は極めて低いと思ったからである。普段からブログでの俺の物言いを、上から目線だと感じておられる読者の方がいるとすれば、それは・・・その通り(笑)。しかし、信じてもらえないかもしれないが、俺は自分の力量、他者の力量を極めて客観的に、しかも謙虚に分析して測ることができる人間だと思っている。何より、自分がやることで人に迷惑をかけたくないという気持ちが強い。その上で、公立高校受験塾であれば、たとえそれがトップ校をめざす塾と謳ったとしても「負けない戦い」ができると思ったのだ。

授業料の単価を考えれば、中学受験指導や高校生の指導、大学受験指導は高く設定できるので「おいしい」と言える。実は、俺も中学受験の小学生指導や、高校生の指導、大学受験指導と、これまで一通り経験してきている。最近はないが、開校当初は中学受験指導について問い合わせもあった。高校生の指導や大学受験指導については卒塾生やその保護者からの要望も少なくなかった。

まず、中学受験指導については、経験はあるものの俺自身がノウハウを身につける前にそのセクションから離れてしまったために「技術がない」「戦略がない」ことが、やらない大きな理由だ。あとは、中学受験の小学生指導は、生徒の精神年齢と必要知識の関係、生徒と親との関係も重要でどうしてもやりにくい。

高校生指導に関しては、卒塾生や保護者から直接要望を受けることもあるが、俺はだいたいこう言って逃げている。「1人でやっているものですからとても高校生までは」と。これでだいたい納得してもらっている。本音は、「大学受験指導の才能がない」ことが最大の理由だ。そう、俺には大学受験指導の才能がないのである。ここまで言い切れるのは、俺がかつて3年ほど塾の高校部責任者として指導にあたった経験があるからだ。この経験についての詳細はまたいつかあらためて書くことにするが(以前にも書いた記憶がある)、俺はこの時、粉骨砕身で挑んで「完璧に負けた」経験をした。その経験があるので、現在中学生までを教えている塾の経営者が、もしも卒塾生や保護者の要望があって高校部をやりたいという相談を俺にしてきたら「簡単に手を出さない方がいい」と即答する。

あまりネガティブなことばかり並べるのは不本意なので、自分の名誉のために書いておくと、俺は今でも高校英文法や高2までの学校レベルのことなら生徒が十分に満足するぐらい教えられるだろうし、大学受験英語も少し知識と感覚を取り戻す時間や、傾向分析・研究の時間があればやれる自信はある。しかし、俺ができるのはせいぜいそこまでで、それが限度だ。つまり「英語講師」はどうにか務まったとしても、大学受験生を預かる指導者として大切なことの1つである、合格へ導くための「総合指揮(プロデュース)能力」がないのだ。この能力欠如は致命的である。それに、「英語講師」が務まると言っても、その場合、小学生や中学生のクラスを全部やめて、塾を「高校英語専門塾」にしなければ不可能だろう。これも昔の経験から悟ったことである。万が一、本当に万が一、大学受験指導に携われるとすれば、以前「ガチンコ」というバラエティ番組であった予備校の大和龍門の立場、つまり、自分は勉強を直接指導せずに、精神的な支えになるという位置づけしかないと思う。

こんなことを書きながら、実は、年に1人ぐらいのペースで高3の大学受験生が塾で勉強したいとやって来て、彼らを非公式で受け入れている。それはもうヤバい状況の生徒しか来ないが、彼らも弁えているので俺の仕事の邪魔をするようなことはなく、質問も遠慮してして来ない。もちろん、俺が高校生の英語以外の教科を指導できないことも知っている。しかし、受験で最も重要な教科である英語の出来が散々で、見るに見かねた時には声をかけ、勉強の仕方をアドバイスしたり、文法理解があまりにない場合は、俺が簡単な講義をしたりている。そうやって、俺は高校ですっかり怠けた卒塾生たちの背中を押すというよりは、3年ぶりにもう1度ケツを蹴飛ばす存在になっている。何度か塾に来ると、決まって彼らの保護者の方が「お金を払いたい」と仰ってくるが、それはもらえない。この行為は、金を取ってやるものではないという俺の判断だ。公立に落ちて私立に行った生徒の場合は特に。だから「君が働くようになって俺が食えなくなったら、飯ぐらい食わせてくれ」とか「大学に受かったら、一生、恩を忘れないように」とか言っている(笑)。

もう、大学受験英語からは随分遠ざかっていたが、そんな風に毎年だれか来るので、少しでも錆びた刀を研いでおこうと、最近、時間があるときに大学受験英語の問題集を解いている。それは高校部をやるためでもなく、ただ趣味として。そして、卒塾生がヤバくなって塾に駆け込んできたとき、英語ぐらいなら少しは助けてあげられるようにやっている。

問題を解いていると、まだ覚えている問題、忘れてしまった問題、知らなかった問題等いろいろあって面白く、高校生に英語を教えたい気持ちが湧いてくる。その上、猫ギター先生やkamiesu先生の高校部の話をブログで読むと、「ああ、いいなあ」と思わないはずがない。猫ギター先生の大学受験指導ブログなんて、全国の多くの塾講師にとっては、野球少年にとっての長嶋茂雄のホームラン、ロック少年にとってのビートルズのツイスト&シャウトだ。あれを読んで、自分もあんな大学受験指導をやりたいと思う講師はきっとたくさんいるだろうし、(当然、真似しようと思ってできるものではないが)それはとてもいいことだと思う。しかし・・・俺は悲しいかな、既に自身に才能がない。容量も足りないことを知っている。だから俺はこれからも、「負けない戦い」をしていきながら、せめて高校で英語がボロボロになった負傷兵の手当とカウンセリングぐらいならできる存在にはなっておきたいと思う。

ヒクソン・グレイシーという格闘家が、相手を選び、ルールに細かく注文を付けて「負けないように」戦い、400戦無敗の伝説を残したまま引退した。俺も塾に関してはそんな感じの戦い方をしているのかもしれない。

ところで、俺には「人生最後の挑戦」にしたいことがある。それは、小さな児童養護施設(親がいない、または親が分からない、事情があって親と一緒に住めない子どもたちの施設)をつくり、そこに塾の機能を備え付けて、その施設から子どもたちを当たり前に公立トップ校や大学に進学させる仕組みを作ること。まあ、今のところ、実現のあてのない夢であるし、夢のまま終わるかもしれないけれど。

これまで何度か書いてきたが、俺はそれほど子ども好きではない。教えることに関しての才能はあると思う。塾の仕事は素晴らしいと思うし、誇りもあるが、塾の仕事が好きかと言われたらそうでもない。

だから俺は、技術や知識が高く、その上で子どもが大好きで、塾の仕事が大好きで、一生の仕事だと言い切れる先生は強いと思うし、講師としての長期的な勝負になれば俺ではとても勝てない相手だと思う。

「好きだから」という思いだけで仕事をやっていいわけがない。たしかに俺は塾を好き勝手にやっているが、自分の技術や才能が担保された範囲でやっている。才能の有無は、必死で何年かやったら自分でもだいたいわかるはず。その才能もないのに、ただ好きだからという理由で無理矢理続ける仕事は、関わる人をどんどん不幸にするだけだ。
ロカビリー * 教務のブルース * 23:26 * comments(8) * -

錯覚と本音と現実と

 俺は何度かブログで「自分の思い通りに塾をやっている」ことを書いた。しかし、8年目になった今現在で、自分の理想の状態かと言うとまったくそうではない。経営面は、開業前の青写真とはかなり異なる自転車操業を続けているが、そのことに不満はない。そんなことよりも、思い通りには行かないなあと感じるのは、生徒のことだ。

俺は最初、今のような厳しい指導の塾にするつもりはなかった。大学の少人数ゼミのように、生徒たちと知的交流をはかりながら、時には真剣に、時には笑顔で生徒たちを鍛えるような場にしたかった。しかし、実際は、授業中頻繁に塾長の怒鳴り声が響き、毎日、誰かしら怒られて泣きながら家に帰る。そうなったのは、結局、開校当初から俺の塾には勉強ができない生徒が多く入って来るからだ。

俺の塾は開校当初から学区トップの公立高校をめざす塾と謳っている。まだ1度も達成していないが、塾生の半数をトップ校に合格させるのが密かな目標だった。しかし、実際は6期生までで25%強という結果になっている。もちろん、開校当初は知名度も信用もないので、成績優秀者は歴史ある大手塾に持って行かれる。俺のような新参の小さな個人塾は、明日のジョーの丹下ジムのように、学校では平凡な成績な子の中からキラリと光る素質を見出し「なあ、兄ちゃん、俺と勉強チャンピオン目ざさねえかい?」と目をかけ、徹底的に鍛え上げるスタイルでトップ校へ逆転で押し込む時期が必要だ。

しかし、それなりに結果を出し続けて8年目を迎えても、俺の塾の門を叩くのは、相変わらず学校の勉強がかなり厳しくなってから入塾を希望する生徒が主だ。だからまた、叩き上げて押し上げるために激しい指導になる。先生という仕事をしている人ならわかると思うが、できない生徒の成績を上げた時、「あああ、いい仕事したなあ」と大きな充実感を得る。もともと、それを望んだ塾講師ならばよいが、俺のように、トップ校や上位校をめざす塾の場合、皮肉にもそのような充実を得れば得るほど、それとと引き換えに、「まだ見ぬ、教えたかった生徒」の足は遠のいてしまう。そしてその評判がまた「できない生徒」を引き付けることになる。

本音を言えば、俺はずっと「できる生徒」を教えたいと思ってきた。知的好奇心が旺盛な中学生を教えたいと思ってきた。勉強の姿勢だとか、やり方だとか、いちいちそういうことを怒りながら指導しなくてもいいレベルの生徒だ。言っておくが決してそれは楽だからではない。よく、できる生徒を教えるのは楽だとか、できる生徒は誰が教えても勝手に伸びるというのは、俺に言わせればド素人の戯言。できる生徒ほど先生の実力を測る目が肥えていて、適当でいい加減な指導をするとすぐに離れてしまう。できない生徒を上げるのが肉体労働ならば、できる生徒を指導するのは頭脳労働・精神労働である。もちろん、できない生徒をできる生徒にすればいいのだが、そううまく行くことはない。ものすごくできない生徒を、まあ何とかできるレベルにしなければならないことも多いのだ。

クラス分けも入塾試験もない集団塾の場合、いくらベテランになっても、どうしてもクラスで「できない子」にエネルギーや指導時間を多く割いてしまいがちになる。授業の進度も、「上に合わせる」と強く意識してもやはりどこかで「全員にできて欲しい」という気持ちが働き、甘くしたり、進むのを待ってあげたりすることも出てくる。そうすると、本来ならば「できる生徒」「もっとできる生徒」に注ぐべきエネルギーや時間が減り、その生徒たちを伸び悩ませる危険がある。俺は絶対にそういうことがないように気を付けているが、下手すれば塾長自身が気づかずにそういう塾になっているところもあると思う。

たとえば、基本的には誰でも入塾OKにしている1クラス編成の集団塾で、中3もいつからでも受け入れる塾があるとする。偏差値は上が70前後で、下は年によっては30台までいる。そういう塾の先生はきっと人情家だろうから、どんなにできない生徒にも、みんなと同じように丁寧に教える。また、授業はギャグや笑いを散りばめ、塾生同士の仲も良く雰囲気もいい。成績が厳しい子に当てて、俺ならば即答できなければ厳しい指摘が飛び出すのだが、そんな塾の先生ならば「生徒が答えるまで何分も待つ」だろう。アットホームな雰囲気なので、そこにいる「できる生徒」「できる生徒になる可能性がある生徒」たちの中には、もしかしたら大手塾に移る子も出るかもしれないが、居心地が悪くなければ大方そういう場面が度々あっても不満は出にくいだろう。しかし、こういう塾になってしまうと、本来ならトップ校に行けた生徒が2番手、3番手校に「納得して」行ってしまう。結果、年数や人数の割にはトップ校進学者の割合が低く、2番手校や3番手校への進学率が高くなる。得てしてこういう場合は、塾長を含め、だれも「錯覚」に気付かない。指導者は、「ものすごくできなかった生徒」をそこそこ上げて進学させた充実感があるから、そのクラスの中に、本当は適切に鍛えればトップ校に行けた生徒を2番手や3番手の高校に行かせてしまったのではないかという可能性に気付かないし、疑問も抱かないかもしれない。該当する生徒たちも、塾に楽しく通っていれば不満はないだろうし、保護者も自分の子どもがまずまずの成績を取り、まずまずの進学先も得て、なおかつ楽しそうに通っているのなら満足だろう。

つまり、一見するとみんなハッピーな状態の中に、可能性の芽を伸ばせなかった罪が、誰も気づかないところで潜伏していることがあるということだ。

集団塾では、上位に合わせたことによる下位成績者の犠牲は誰にでも顕著にわかる。しかし、それに比べ、下位に合わせたことによる上位者の犠牲は誰の目からも見えにくい。

俺はそういうことを考えて、ただでさえ少ない生徒なのだが、今年度から新規の途中入塾者に関しては門戸を狭くしている。小学生からいる生徒とか、中1の最初からいる生徒ならば学力が少々低くても責任を持って指導するが、中学の「途中から入ってくる、できない生徒」に関しては、できるだけ受けないようにしようと考えている。それは、俺がその生徒に全力を注いで成績を上げる充実感の裏側で、「できる生徒になるかもしれない」生徒たちの可能性を犠牲にしたくないという思いからだ。まあ、とはいえ、現状で既に受け入れている「できない生徒」が何人かいるわけであるが・・・。
ロカビリー * 教務のブルース * 23:45 * comments(2) * -
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