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個人塾、その凄みを知った日(5)〜授業交流戦〜

 Kamiesu先生には中3の関係代名詞をお願いしていた。Kamiesu先生の関係代名詞の授業と言えばブログでも度々登場する。俺が知る限りでも、中3の春の段階で関係代名詞の授業をやられたり、猫ギター先生がはじめてKamiesu先生の英語の授業をご覧になられたのも関係代名詞の授業だったと記憶している。

俺の塾でも一通り、教科書レベルの関係代名詞までは終えていたところなので、絶好のタイミングだと思い、先生には関係代名詞の授業をリクエストした。

ほどなくKamiesu先生から意外な言葉が飛び出す。

「今日の授業では、今ちょっと取り組んでいる、実験段階の教え方でやってみてもいいですか?」

「はい。お願いします。」

返事としては表面的には普通に答えたが、この時点で俺は既に先生の強い力を感じたのと同時に、その初めての試みの場が俺の塾であることを幸運に思った。


わかるだろうか?塾の先生なら立場を置き換えてシミュレーションしてみればわかるはずだ。


ぶっちゃけ、ベテラン講師や塾長クラスの先生たちの多くは「俺の授業は地域ナンバー1だぜい」ぐらいの自負はあると思う。もちろん、言うだけのことはあるという人もいるだろうし、実際は腹が立つほどのションベン授業なのに、いったいどの口がそんなことを言わせるのかって場合もある。そういう人たちの大半は、ある程度授業も単元ごとに型ができているし、積極的に教え方を変えていこうとする姿勢はないはずだ。実際、俺の場合も、自分がまだ経験が多くない科目ならともかく、教え慣れてる科目の場合は大きな部分を変えることはない。ある程度うまく運んでいる授業、しかも授業以外にもやることがある中で、あえてまあまあうまく行っているところに手を入れることは「時間」がとられ「リスク」も背負うことになる。だから、うまく行っている授業は定番化する。だが、リスクから逃れるうちに、「工夫すること」をやらなくなってしまう。そして、いつの日か工夫することを避けてきた講師の授業は使い古されたそんじょそこらの授業になってしまうのだ。大手で修羅場をくぐり、卓越した教務技術をブログに書かれ、現在も自ら教壇で奮闘されるKamiesu先生のことだ。俺の勝手な想像だが、「不定詞・第1巻(名詞的用法)」とか、「比較・第3巻」とか、頭の中に単元ごとの名作品集があるのだろうと思っていた。にもかかわらず、既存のものではなく、新たな試みをやろうとするその姿勢に本当に頭が下がる。

しかも、それを。

初めて訪れる完全アウェーの塾。はじめて会う塾長と生徒。そこで行う一発授業。

俺なら絶対にテッパンの授業をやる。テッパン、つまり絶対に自信のある、いままでの経験上、外すことはまずないお題目の授業だ。お笑い芸人のネタでもそうだし、これが歌なら、絶対に外せない一曲ライブなら、コードを間違えそうな曲や、体調によっては声が出ない危険がある歌ではなく、失敗のない曲を選ぶだろう。なのにそこで新曲をやるとは。ものすごく勇気のいることだ。

さて、いよいよKamiesu先生の授業が始まった。猫ギター先生と俺は既に事務室に掛け、ガラス張りの間仕切り越しにKamiesu先生の姿を見ていた。授業開始数分後、猫ギター先生が俺の方を振り向いて仰られた。「これはすごい導入ですね。」俺も大きく頷きながら、まったく同感だと思った。驚いた。こんな関係代名詞の授業は見たことがないし、俺も結構これまで英語を教えた場数はある方だが、こんな授業はしたことがない。もっとも、こんな切り口に気づかないのだから、できるはずもない(笑)。第一、関係代名詞の授業なのに「関係代名詞」という用語が出てこないんだから。本当なら内容の詳細も書きたいが、Kamiesu先生の新しい試みを俺がここに書くのはちょっと控えたい。

代わりに、先生の授業の様子を書かせていただく。先生は教室という場の空気を掴み、コントロール下におくスピードが速かった。テンポもよく、生徒をどんどん授業内容に引き込んでいく。15人いた中3に当てるとき、俺が事前に渡した座席表にほとんど目を落とすことなく、本人の方を真っ直ぐ向き、名前を呼ばれた。まさか・・・授業前の時間に生徒の名前を覚えていらっしゃったのか?後方座席の生徒を当てると、その生徒の側まで近づかれる。そして、その生徒が何か答えると肩を優しくポンと叩く。できない、できない、こんなこと(笑)。

先生の声は決して大きな声ではなかった。デカイ声で聞かせる授業ではなかった。生徒全員の意識を束ね、次々と内容を変化させ、展開させながら、最終目標へ着実に誘う授業だった。話の内容も授業一本。雑談や小話のような「寝技」で生徒を惹き付けるのではなく、授業と言う立ち技で生徒を惹き付けている。最初はその変化と展開の速さについて行くのがやっとだった生徒たちも、先生のリピートの回転に誘導されるように、彼らの脳内の歯車が徐々に噛み合い回りだす。俺は指導する立場の人間なので、先生が段階をギアチェンジする音が聞こえた。俺は思わず猫ギター先生に「おお、だんだん本題に来てますね!」とボソッと言った。

ところで、俺の独断で「力量のある英語講師か否か」の判断材料がいくつかある。超基本的だが、たとえば、「発音がいいこと」。発音の悪い英語講師に習った生徒は耳(リスニング力)が例外なく悪くなる。先生の発音はとてもきれいだ。俺も発音はまあいい方だと思うが、Kamiesu先生の発音はものすごくいい。あと「例文が即興でスラスラ出てくること」。授業中の例文の連発は、生徒の理解を助けるのに重要な役割を果たす。いやあ、速かったなあ。例文が出てくるスピードが。ちなみに、先生が授業で話されていた「Smith」の発音は、俺が習った個人塾の先生は、「スミス」と発音しない方の希少な10%の先生だったから安心した。そして、俺もそれを受け継いでいる。

しかしね。驚いた。

キレのある授業だった。

静かに、奥の方に浸透するような授業だった。

・・・・・・こうして、猫ギター先生、Kamiesu先生に授業をやっていただいたわけだが、2人の先生は偶然にも生徒によく「手を挙げさせ」た。実は、俺の塾で、俺は生徒に意図して手を挙げさせていない。その理由は生徒に手を挙げさせることで、挙げない生徒によるムード沈滞を避けるためだ。「はい、わかった人手を挙げて!」なんて言って誰も挙げなかったり、いやいや挙げているのを見たら、間違いなくそこから1時間の大説教が始まってしまうだろう(笑)。そんな中で、2人の先生は生徒にどんどん手を挙げさせ、また、生徒たちも普段そういうことに慣れていないのに抵抗なくスッと挙げていた。これは先生たちが作り出した雰囲気による部分が大きい。手を挙げる風景のある授業は、生徒の積極姿勢が全面に出て、本人たちも楽しいだろうし、傍から見ている方も気持ちがいいものだった。

後日、猫ギター先生、Kamiesu先生のことを、生徒たちが家に帰って親に喜んで話をしたということも耳にした。

11月9日。こうして俺の塾ではたった数時間のうちにすごいことが起こったのである。(つづく)
ロカビリー * 人生のブルース * 23:54 * comments(0) * -

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