<< 若い翼は(4)終 | main | 塾のルール >>

地味すぎて気付かれない「つぶやき」指導

現在、友人(副塾長)と毎晩のように授業の後話をしている。主に経営のことと教務指導のことだが、個人塾にとって圧倒的に重要なのは教務指導である。教務指導がすなわち塾の品質であり、究極的には個人塾の商品は塾長自身だ。商品価値を高めるためには、人間的に「この人にならついて行きたい」「この人になら子どもを預けてもいい」と思われる立ち居振る舞いや言動が必要である。もちろん、それだけではいけない。大前提として「塾の品質」つまり授業や指導がしっかりしていなければならない。

友人はこれまで2つの塾で講師経験がある。しかし今、俺の塾に来て俺と話をすると「いや・・・これまでそういうことを意識したことがなかった・・」と驚くことが多い。そのような反応を見る度に、俺は他の塾との「指導の違い」「品質の違い」をあらためて確認することができるし、だからこそこんなに激しい指導でも10年やってこれたのだと思う。そして、友人にもぜひ1つでも多くのことを感じ取ってもらい、自分のものにしてほしいと思っている。

今、友人はできるだけ俺の授業を見るようにしている。ただ、授業を見る時に「何を感じるか」というのは、見る側の意識の範囲内のものに限定される。意識が広がり感度が高まらなければ、何度か授業を見るうちに「だいたいわかった」と思うようになる。しかし、実はその段階でも見落としていることや感じ取っていないことは少なくない。なかなか感じ取ってもらえない時、見てもらう側から「今度はそこを見ておいてくれ」と言われてはじめて気が付くこともある。授業を見ることや、そこから何を感じ取るかは、それ自体が「能力」なのだ。

友人も、もうだいぶ俺の授業を見てきた。俺は自分の授業にいくつも「意識」を入れていて、それこそが俺の授業の肝になっている。しかし、それはまったく派手さがないものばかりなので、友人にもなかなか気が付いてもらえないことがある。友人の名誉のために言っておくが、彼が鈍感なわけではないのでそれだけ「気が付きにくい」ことなのかもしれない。

たとえばつい先日、授業後に俺の授業について話をしていて、俺の方から「これ気が付いてた?」と確認してみたことが3つほどあったが、やはり気が付いていなかった。このことは、俺にとって指導の上でものすごく重要なことであるが、たぶん普通の講師の人はあまり意識されないのかもしれない。

まず生徒の質問である。

長い読者の方にはご存知の通り、俺は生徒にとっては「超コワい先生」だ。俺は別になりたくてなったわけではないが、自然にそうなってしまった。一方、友人は「優しい先生」である。友人のことを「厳しい先生」と認識している生徒や保護者は少しぐらいいたとしても「コワい先生」と思っている人はほとんどいないと思う。

授業の後、俺と友人の会話。

俺「俺が教えているクラス。この前卒業した高1や今の中3なんだけど、よく質問すると思わない?」

友人「そう言えばそうだね」

俺「お前のクラス、質問が少ないよな?何でだと思う?」

友人「あー・・」

俺「言っとくけど、中3だからとか、たまたま俺が持っている生徒の性格とか、そういうのじゃないから。」

普通に考えたら、生徒にとって俺の方が絶対に質問しづらい。そもそも、生徒には「先生に質問をする」という習慣がほとんどない。学校の授業で質問するのは、どちらかといえば「普通ではないこと」だ。たいていの子どもはその習慣をそのまま塾に持ち込む。だから、友人がいくら優しい先生でも「質問をしない」方が当たりまえだ。そこに来てさらに、これまで出会ったことがないような恐ろしい塾長に生徒が質問をすることができるのか。言うまでもなく、学習において「質問」は極めて重要なことの1つだ。ただ、これを学習者が行うことは、指導者が思っている以上に相当に難しい。なぜなら、「質問」は学習者の勉強に対する高度な積極姿勢の表れだからだ。もし、これを生徒が自発的に習慣的にするようになれば、学習効果の劇的なアップになる。それが俺にはできて、友人にはできていない。友人のクラスの生徒は授業が終わったらすぐに帰る子が多いが、俺のクラスの生徒は授業が終わってもほとんどの生徒が残って、しばらくは勉強を続けて質問があれば俺を呼ぶ。たとえ授業の技術が同じぐらいだとしても、この「質問」への空気の醸成のちがいでその後のレベルアップに雲泥の差が出てしまうことは言うまでもない。授業の合間や最後に「じゃあ、質問ある人手を挙げてー?」なんて言って、無反応な生徒たちを見て「よしよし、みんな俺の授業をわかってくれたか」なんて慢心していては、生徒の力を伸ばすことはできない。

次は「サブリミナル的つぶやき」だ。

俺は演習の時間を長くとるので、見回りは多い。俺は見回りながらブツブツとつぶやいている。それは独り言ではなく、意識的にボソボソとつぶやいているのである。計算の演習中は「はい、スピードね、スピード意識」「カッコの前のマイナス注意だよ、カッコの前のマイナス注意」、英語なら「はい、三単現と時制ね、意識して、三単現と時制」「名詞の処理に注意、名詞の処理に注意」。こういうことを繰り返し繰り返し、見回りをしながら何度もつぶやく。もちろん小さな声だが、生徒は演習に集中しているので、このぐらいの小さな声でも入って行っているはずだ。

あとは「終わり方」についてだ。

俺は常々、生徒には「間違えた問題は、どこが間違えたのかを必ず分析、解決し、それをノートにメモしてから解き直しをするように。分析や解決できない場合は僕を呼ぶように。」と指導している。しかし、生徒全員がこれをやってくれるまでには、相当に辛抱強い指導が必要だ。人間はできれば自分の間違いと向き合いたくないし、できない生徒ほど、はやく勉強を終えたい気持ちが強い。そうすると、上記の内容の途中を省き「間違えた問題 →やり直し」という手順でやろうとする。つまり、どこをなぜまちがえたのか、ポイントは何だったのかの分析と解決がされないまま、ややもすれば「答えを暗記してやり直し」という効果のない形式的なやり直しになってしまう。指導者も一見するときちんとやっているように見えるために、それを見逃してしまう。

俺は時間が来て演習をストップさせるときに

はい、ここからの時間大事。間違えた問題の処理、この時間が1番大事だよ。」

とブツブツつぶやきながら歩き回る。さらに、やり直しに入った生徒やノートを片付けようとしている生徒に声を掛け

もう終わった?間違えた問題は原因わかった?そう、ちょっとノート見せて。・・・ああ、ここダメだ。ここはね、こういう書き方じゃなくてね。ほら見て、これだと間違った原因やポイントになってないじゃん?わかる?こういう場合は、こういう風に書いて・・。ね?これで初めて解決だよ。ここからやり直しに移行すればしっかり理解につながるからね。

という具合に「間違えた問題の処理」が意味のないただの作業にならないようにしている。

演習中の「つぶやき」や、演習後の「つぶやき」は、俺の指導には欠かせない重要なことである。








 
ロカビリー * 教務のブルース * 18:38 * comments(0) * -

コメント

コメントする









このページの先頭へ