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塾の謎2(1人称と生徒の呼び方)

人と関わる時、それが初対面であっても、家族であっても、恋人であっても、あるいは師弟であっても「ことば(特に呼び方)」によって関係の緊密度や距離感がわかる。言葉は人間の心的距離そのものと言ってもよい。

ここでは、俺の塾においての「1人称、生徒の呼び方」について触れてみたい。実は、この内容も以前のエントリー「おれぼくわたし」というタイトルで書いた記憶がある。重複する部分もあるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

まず、1人称について。指導者が自分のことをどう呼ぶかであるが、おおよそ「先生、ぼく、おれ、わたし」のいずれかだと思う。俺の場合、塾講師を本格的に始めた20代前半から1人称はずっと「俺」だった。それは自分の素のキャラクターに最もマッチした呼び方だったからである。ちなみにこの頃の俺は、ポマードべっちょりのリーゼント、薄いブルーが入ったメガネ、荒っぽい口調というキャラクターで、生徒にとってその格好と「俺」は極めて「自然」であったはずである。それから途中5年のブランクがあり、独立してからも4年間は「俺」だった。その頃俺は既に30代が終わり、40代を目の前にしていた。この時、自分の中で「違和感」を覚えていた。自分の呼び方は、自分にとって1番自然なものがよい。ここで感じた「違和感」は、明らかにそれまでの「俺」に対するものだった。自分の中では「わたし」を使いたい、というよりも自然に子どもの前で「わたし」と言える人間になりたい気持ちがあった。ただ、俺の精神年齢が低いのか、大人相手には「わたし」と言えるのに、生徒の前で「わたし」と言うのがなぜか恥ずかしい。さすがに、恥ずかしいと思ってしまう1人称は使わない方がいい。「ぼく」ならどうだろう?そう言えば、サラリーマン時代や大人相手に付き合う時、親しくなるにつれて1人称は「わたし→ぼく」に変わる。よほど親しくなると「俺」になる。だったら、逆走して考えて、今までが「俺」だったのだから、「わたし」の1つ前の「ぼく」なら言えるかもしれない。年度の変わり目からさっそく実践してみた。

しかし、難しかったのは、以前からいる生徒ができるだけ不自然に感じないように配慮することだった。俺の塾ではそれまで、小学生(先生)、中学生(俺)で統一していたが、「ぼく」導入の初年度は、小学生(先生)、中1(ぼく)、中2(俺)、中3(俺)2年目は、小学生(先生)、中1(ぼく)、中2(ぼく)、中3(俺)。「先生→ぼく」への変化は、以前からいる塾生にとってそれほど変な感じはないと思った。そして3年目、ついに小学生(先生)、中学生(ぼく)が完成したのである。この間、苦労したのは、ご存知の方もおられるように、俺の塾は2教室を同時に動かす「ダブル授業」で、移行期間では隣で「俺」と言った直後に、すぐ横の教室では「ぼく」と言わなければならないことだった。最初の1年は「ぼく」なんて言い慣れないことを言うのは少し恥ずかしかったが、今ではすっかり板についた。

1人称は「相手への敬意」の1つだ。だから俺は少なくとも、指導者が1人称を「先生」と言うことには強い違和感があるし、相手が小学生ならまだしも、中高生相手に自分のことを「先生」と言う教師がいたら、俺が中高生ならちょっと生徒に対して敬意がないな(=こちらを子ども扱いしている)と思うか、自分のことを先生とか言ってるよ、と痛々しく感じると思う。まあ、結局のところこの辺はすべて自分の感覚でやっているのだが、中高生の感覚としては大きくずれていないと思っている。

次に生徒の呼び方について。これに関しても、苗字、下の名前、君づけ、さんづけ、呼び捨て、さらにはニックネームまであるだろう。地方に行けばいくほど呼び捨てが一般的で、女性の先生ですら生徒を呼び捨てで呼ぶこともある。俺についていえば、20代の頃は基本的に「名字呼び捨て+お前」だった。ただ、同じ姓がいる場合は「下の名前呼び捨て+お前である。生徒の間でニックネーム、たとえば誰かを「チョロ」と呼ぶことが浸透している場合は、俺もニックネームで呼んでいたこともある。この頃はこれでよかった。俺も若かったし、生徒との実年齢も精神年齢も、心的距離も近かった。俺は生徒にとって「アンチャン先生」だったし、俺もそのような存在を望んでいた。

しかし、独立してからは、生徒の呼び方に関しては1年目から統一していた。これは自分が塾を開く前からずっと決めていたのだが、男女問わず「〜くん」と呼んできた。それから「おまえ」とは言わず「きみ」と言うようにしてきた。これは俺が彼らにとってどのような先生でありたいか、どのような塾でありたいかの姿勢の表れであり、言い換えれば、やはり生徒に対しての敬意である。たぶん、全国でもこのような呼び方はあまり多くないと思う。特に女子生徒を「くん」で呼ぶ先生は今ではあまり聞かない。実際、生徒も初めは驚く子もいる。だが面白いもので、慣れて来ると、彼ら(女子生徒)も「くん」で呼ばれることで、「塾という場所」「俺と言う人間」を満更でもなく新鮮に感じてくれているように思う。

このことに関しては影響を受けた先生がいる。それは俺が中学の3年間通った個人塾の先生だった(このブログでも何度か書いている『最強講師列伝』)。田舎の口の悪い教師が多い中で、この先生は男性であるにもかかわらず自身のことを「わたし」と呼び、生徒のことを全員「くん」で呼ばれていた。もちろん「きみ」と呼ぶこともあった。(ただし、スパルタ塾だったので、殴られるときは呼び捨てで「貴様!」とも言われた)

俺はこの時、言葉遣いが綺麗な大人(男性)に人生で初めて出会った。しかも、先生はいつも香水をつけておられて、古い小屋のような塾に1歩足を踏み入れるとふわっといい香りがして、姿勢の良い、言葉の綺麗な、まるで英国紳士のような先生がいる。畳の上に胡坐をかいて授業を受ける塾ではあったが、俺にとってはその空間だけ「特別な場所」になっていた。勉強嫌いで怠惰な俺が自然と背筋がピンと伸び、指示にしたがって黙々と鉛筆を走らせる。まるで魔法にでもかかったように、薄汚い田舎のガキを勉学に素直に向かわせる。

人は人に反応する。俺はそれまで「先生」というものに対して、いろいろなことがあったせいもあり、どこか嫌なイメージがあった。自信なさげな先生には容赦なく悪態をつき、理由もなく高圧的で暴力的な先生には面従腹背の姿勢を取った。しかし、中学で出会った塾の先生の前ではなぜか素直になれた。自分の最も真摯な部分が引き出されるのが分かった。今思うと、それは先生が俺たちに払ってくれた「敬意」だ。周囲の大人、つまり、親や教師は、特にこの時代は当然子どもを子ども扱いにする。しかし、この塾の先生からはそれを感じなかった。点数が悪いと竹刀で殴られ、ビンタもされるが、普段の先生は明らかに俺たちに「敬意」を払ってくれているのを感じた。その敬意は1人称、生徒の呼び方、香水、言葉遣い、それらすべての「品(ひん)の総合」であった。そのことが子どもながらに心地よかった。俺はそれを自分の塾で再現したかった。できればがっちり「自分のもの」にしたかった。

俺はこれに加えて普段は標準語で話す(中学の個人塾の先生も福岡人の割には標準語が多かった)。だから、俺の塾は俺自身が中学生時代そうだったように、生徒にとって異空間であるに違いない。俺は中学時代の塾の先生よりも激しく怒るし、退塾率も比べ物にならないほど高い。しかしそれでも、生徒と近い距離だった20代のアンチャン先生の頃より、ほとんど雑談もしない今の方が、有難いことに生徒や保護者が俺を尊敬してくれているのを感じる。怒る時も血の気に任せて「テメェ、コノヤロウ!!」とねじ伏せていた20代よりも、「君は本当にそれでいいのか!」と冷静な部分を残しながら怒る今の方が、子どもにとっては「深く刺さる」ような気がしている。

繰り返すが、人は人に反応する。それも理屈ではなく先に感覚で反応する。粗野な対応には怒りや無気力で反応しがちだが、品のある綺麗な対応をされると、自分の血液にツーっと心地よいものが流れるのを感じる。綺麗なものの前では、自分の中の綺麗なものが素直に反応する。もしかしたら、世の中の親や先生のラフな言葉ばかりを浴びせられて、当の大人が知らず知らずのうちに彼らを辟易とさせているかもしれない。「ラフスタイルで厚い信頼関係」を築けていると信じて疑わない集団の中で「なんで赤の他人に『おまえ』なんて呼ばれないといけないのか」「なんで自分が呼び捨てにされるのか」と悩んでいるナイーブな子どももいるのかもしれない。

俺もこの先生に出会わなければ、それはわからなかっただろう。つまり、それまで出会ったことのない存在に出会うまで、薄曇りの違和感はいつまでもクリアになることなく感覚神経をチクチクつついたまま存在し続ける。

中学時代の小さな小さな個人塾の1人の先生が、俺にそれを教えてくれた。ひとつ残念なのは、ついに自分を「わたし」と言えずに塾講師人生が終わりそうなことだ。

俺はまだ生徒への敬意が足りないのだろうか。










 
ロカビリー * シリーズもの * 20:33 * comments(1) * -

コメント

とても丁寧に書いていただき、ありがとうございました!
自分の一人称と生徒の呼び名、改めて考えようと思います。
Comment by 京都のみかみ @ 2015/05/23 1:50 AM
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