長哀歌(9)

 はじめて高校生を教えた時は、とにかく自分が浪人時代に受けてきたスーパー予備校講師と同じ舞台に立てたんだ、などと高揚して、ただ自分が授業をすることに満足していた。しかし、それから数年経ち、責任を感じながら指導をするようになってからは「やりがい≦苦しさ」の図式になっていた。

中学生とは違い、素直に勉強に向かわない高校生。精神的成長と自我の芽生えの裏側で、近視眼的思考と堕落を増長させる高校生。理屈を覚え、詭弁を弄するように反論する彼らに、まるで昔の自分を見ているようで腹立たしく、そして疲れることもあった。

高校時代の俺が押し付けの強い大人に徹底して反発した経験を持つので、はじめ俺は高校生を大人扱いしていた。お前たちが考えて、お前たちが決めろ、と。しかし、それでは多くの高校生が楽な方へ、どう考えても弱い方へ向かって行くのは明白だった。だから俺は途中から、高校生の堕落に対して徹底抗戦で挑んだ。中学生の時以上に、厳しく怒り、泣かせた。そして、そこで関係が終わる生徒も出た。

一方で、大きな不安もあった。毎回毎回の授業のことを考えると恐怖心さえ湧いてきた。このやり方でいいのか、これで本当に彼らが力をつけて大学に受かるのか。模擬試験で予想をはるかに下回る偏差値や判定が続出するたびに、内臓全体に鈍痛が走るような気持ちになった。

中には、俺たちのことを全面的に信頼し、真っ直ぐな姿勢でついてくる生徒もいた。指導者とは我がままなもので、言うことをきかない生徒に対しては「ちゃんと言うことを聞けよ!」と腹が立つが、こちらを一切疑わずに素直についてくる生徒には、ふとした時に「これでもしダメだったら・・」という恐ろしいほどのプレッシャーがのしかかるものだ。そういう弱気が出るとすぐに振り切って、とにかく毎日が必死だった。

毎回1人で考え、スタッフと一緒に考え、家に帰ってまた1人で考える。そして授業をする。受験が近くなればなるほど、もう俺にできることは「時間を使うことだけだ」としか思えなくなり、正月も元旦から自習室を開け、神頼みまでしようと、太宰府天満宮から人数分のお守りを取り寄せた。

第一志望は叶わなかったが、大学進学が決まった高田という男子生徒が入試の後に顔を出して俺に言った。「先生、受験直前は相当精神的にキテたでしょう?だって、先生がしゃがんだ時、先生の頭頂部が見えたんですけど、白髪で真っ白でしたから・・」。俺は自分ではまったく気が付かなかった。この生徒との思い出もある。彼は非常に温厚な生徒で、はじめ科目が多い国立理系ということもあり、週に100個の英単語テストのペースの乗れなかった。毎回、15個ぐらい間違える。俺がそれを何度も叱責した。彼なりに一生懸命やっていることはわかっていたが、それでも心を鬼にして叱った。ある時俺が「おい!もうお前は無理なのか?週に100個ごときの単語がもう無理なら、志望大学はあきらめろよ!どうなんだ?」と問い詰めた。彼は童顔の表情を曇らせ、「・・・・もう少し、寝る時間を削ってやってみます・・・・」とつぶやくように言った。俺はその彼の苦渋に満ちた表情を見て「俺は果たして生徒のためになる指導をしているのか」と自分自身の指導を疑ったことがあった。

結局、俺と会社内の主力スタッフの総力を投じた大学受験指導の結果は、決して生徒たちを満足させるものでもなく、外部に誇れるようなものでもなかった。あれだけ苦しかった1年を終えても、俺にはやり遂げたという充実感はまったくなかった。やっと呪縛から解放されたような妙な安堵と、いい結果を残せなかったという生徒への申し訳なさ、自責の念が桜の春を迎える俺の心を灰色に染めた。俺はただただ疲れ果てて、休みたかった。しばらく仕事をしたくないほど疲れていた。体力や気力に関して「最強」と、社内でも自他ともに認める俺にしては実に珍しいことだった。俺はこの直後、異例の長期休暇(2週間ほど)を認めてもらい、人生で初めて海外(アメリカ)へ行った。

その1つ下の高2(新高3)も、俺と増田先生で高1のころからずっと教えてきた生徒たちであり、俺に中1から習っている生徒たちも多い学年だった。ただ、俺はこの時迷っていた。「もう俺には大学受験指導はできない」という気持ちと「もう1回やればきっとできる」という気持ちが交錯していた。俺としては、もしやるならば、当然、またこのメンバーでやりたいと思った。しかし、増田先生が会社退職を決意し、さらに、その穴埋めを映像授業でやろうと社長が提案してきて俺は「やめる決心」を固めた。そして同時に、今度こそ「塾の仕事はラスト1年」と決めた。

俺は社長に予備校指導の辞意を伝え、最後の1年は中学生の指導をしながら後輩たちにできるだけ指導の技術や考え方を伝えようと思った。


長々と書き綴ってきたこのシリーズは、次回を最終回としたい。

ロカビリー * シリーズもの * 16:11 * comments(0) * -

長哀歌(8)

 秋以降の話の前に、いくつか重たいエピソードがあったのを思い出した。

準拠で高1、高2と順調に好成績を取ってきた生徒たちには予め、高3では準拠授業はせず、全員が一般受験用の授業を受けることになる旨を伝えていた。定期試験の順位が常に学年上位で、推薦を考えている者もいた。彼らは既に定期試験の勉強をどのようにすればいいかわかっている。恐らく、高3でも定期試験の勉強は自分でできるだろう。、しかし、実際に100%推薦が大丈夫だとは言えないわけだから、受験用の勉強もしておく必要がある。それに受験勉強をみんなと一緒にすることは色んな意味で損になることは決してない。

大人は常に「子どもの先のこと」を考えて彼らを動かそうとする。しかし、子どもにとって、人生とは「今」か、せいぜい「少し先」のことであり、そういう意味においては時として大人以上に考え方が利害に満ちて現実的だ。

高2の終わり頃に、学年順位1ケタを取り続けていた玲子という生徒が予備校をやめると言ってきた。彼女は高校生になってから入ってきた生徒で、増田先生の数学や俺の英語の準拠授業で常に英数は9割前後を取り、他の教科も試験前の自習で先生たちを捕まえて質問し、その結果英数以外の教科でも高得点を取り続けていた。予備校や講師たちを最大限に利用し、俺たちのことを信頼してくれて、そしてまた、俺たちも玲子のことを教え甲斐のある生徒だと思ってきた。その玲子が突然の退塾を申し入れたのである。前触れなどの心当たりはなかった。理由を尋ねると、やはり自分は推薦を考えていて、一般入試の勉強をする気はなく、高3では自分で勉強するということだった。俺も増田先生もそれぞれ講師室に呼んで「引き留め」たが、彼女は頑なに自分の考えを曲げず、こちらが強い口調で訴えても、ヒステリックに残留を拒むだけだった。俺も相当ショックだったし、増田先生も同じだったはず。こういうセリフは講師としての道義に反するのかもしれないがあえて言わせてもらえば、玲子の成績は俺たちがここまで育てたのだという自負があった。本来ならば休校の日でも、自習室を開けて欲しいと言われたから開けたこともあったし、こんな問題はありませんかと言われるたびに色々な教材をコピーしてあげた。その時の気持ちとしては、俺たちを利用するだけ散々利用して、ちょっと自分が求めるものがないと感じた途端に去って行くのか。お前は恩義という言葉を知らないのか。そんな憤りの気持ちが頭を支配した。講師と生徒の一時的な信頼関係など、所詮は砂上の楼閣なのだとその時に痛感した。

トップ校の高校生や、高校でそこそこ成績がいい連中というのは妙に自意識が高いところがあり、人から指図されたり強制されることを拒む傾向が高かった。一般入試の生徒なのに、定期試験の勉強をしたいから予備校を休むと言って、それをこちらが認めずに来させようとすると「僕にはこの予備校は合っていないようなので辞める」という生徒もいた。せっかく中学時代にいい関係を築いてトップ校に入ったのに、高校でバイト先の悪い友人と遊びほうけて予備校を嘘をついてさぼったヤツもいた。俺が「この野郎、お前俺を騙してたんだな。いい度胸だ、これからお前をぶん殴りに行くから待ってろ!」と言い放つと、家を出てどこかに隠れてしまい、そのまま逃げるように予備校をやめた生徒もいた。

俺が中学から教えていた弘士という生徒がいて、彼は小学校の頃からいじめられ、最初に会った時から目に光がなく、平静を装っているがその振る舞いに不自然な力みがあり、彼が対人関係に恐怖心を抱いているのがわかった。たまたま俺が教えていた校舎には同じ中学の生徒がいなかったので、弘士は他の塾生と仲良くなり、また彼は賢かったのでいつしか塾の友だちから一目置かれるようになっていた。内申点は非常に厳しく、当時の入試制度からすると、ほぼ内申で可能性ゼロに近い入試だったにもかかわらず、彼は本番で得点し合格した。生徒からの合格報告で俺が後にも先にも唯一電話口で泣いた経験が、この弘士の合格だった。弘士からすれば俺は「英雄」だ。自分に自信をつけてくれて、奇跡的な合格まで導いてくれた恩師なのである。当然のように「僕は先生に一生ついて行きますから」と言って予備校にも来た。今はもうそんなことを真に受けるほど若くはないが、その当時は「任せとけ!俺について来い!」と結構本気で思っていた。

高校という新天地で最初は楽しく過ごしていたようだったが、弘士は高1の終わりごろから予備校に来なくなった。他の生徒にきくと学校にも来ていないという。そのまま数か月が経ち、弘士が久しぶりに予備校に顔を出した。不自然なぐらい元気な様子を取り繕っていたので、俺は嫌な予感がした。案の定、授業終了後、彼から高校を退学するという話を打ち明けられた。つまり、予備校をやめると同時に彼は高校を退学するのである。わざわざ予備校にまで来て俺に言うほど覚悟をしてきた弘士に俺は説得しなかった。彼は結局、中学時代と同じように対人関係で悩み、自信を失ったのだろう。中学時代に同じ校舎で塾に通っていた綾と言う女の子を誘い、3人で「最後の晩餐」をした。俺は何とか場を盛り上げようと何度も試みたが、何と言っていいのか、終始何ともいえない空気の中での食事だった。

由美という生徒がいた。彼女は小6から塾に通う生徒で、付き合いはかなり長かった。俺自身は、由美が中1の時から授業を受け持っていてよく知っている。由美は学校でも塾でもいわゆる模範的な生徒だった。部活をやれば部長に、生徒会をやれば生徒会長に推挙され、実際にその重責を全うした。成績も当然優秀で、トップ校に進学した。高校でも部活を続け、ここでも部長として頑張った。部活をいよいよ引退して、やっと勉強に本腰を入れるという時、由美が講師室に相談があると言ってきた。高3の夏期講習前のことだったと記憶している。突然、大学受験をせず、専門学校でデザインを学びたいと言い出したのだ。信じられなかった。トップ校で部活をやって来たので、成績こそ厳しかったが、春に調査した志望大学を見据えて夏から頑張って行こうと思った矢先だった。俺には由美の考えにどこか短絡的なものを感じ、デザインの勉強は今すぐ慌ててしなくても、大学に行ってからでもいいのではないかと諭した。これまでずっと由美は俺たちから見て「話の分かる生徒」だったので、穏やかに話をして、それで十分わかってくれるものだと思った。しかし、由美は「もう決めたことなんです」と言った。俺はその一言をどうしても受け入れられず、はじめて由美を怒るような口調で責めた。お前は結局、これから本格化する受験勉強から逃げているだけだ。もっと前からデザインに興味があると言っていたならまだしも、突然言いだしてきて勉強をやめるなんてとんでもない。何のために進学校へ行ってこれまで予備校に通ったんだ。お前の真剣な夢ならば俺は応援してやりたいが、お前の今の話は最近急に思いついたことであり、とてもではないが受け入れらない。とにかく、デザインをやるにしても、お前は今現在トップ校の高校生なんだから、今やっている勉強を全うしろ。普通科の進学校でデザインは勉強できない。それよりも、人生の頑張りどころの受験勉強をこんなところで中途半端にやめてはならない。予備校は最後まで続けろ・・・・。そういう内容をまくし立てた。模範生だった由美はたぶん、それまでの人生ではじめて先生に怒られ、はじめて先生の前で泣いた経験をしたにちがいない。

その二日後、由美が俺の授業に来る日、俺が準備で入ると増田先生が既に来ていた。増田先生はすぐに由美の話をし出した。「ロカビリー先生、由美が昨日僕の授業の日に来て、もう予備校には来ないと言って帰りました。『ロカビリー先生からお前の夢は本物ではない、中途半端だと言われたけど、私は本気で思っているんです。増田先生には分かって欲しい。』と言って帰りました。僕はただ『わかった』と言って帰しました。僕にはロカビリー先生の気持ちは分かるし、相当由美に腹も立つんですが、『いいよ、分かった。頑張ってね。』と伝えることで、僕は由美にとっては一見、理解のある態度、しかし本当は一番冷たい態度を取りました。すみません。」

増田先生なりに精いっぱい俺のことを慮ってくれたのだと思った。しかし俺はその話を聞いて、毎日、授業運営や受験指導で張りつめていたものが、一瞬でガラガラと崩れた。「こいつに裏切られるんだったら、もう誰も生徒信用できねえじゃん」。何年も教えてきた関係なのに、最後は直接的な挨拶もなく辞める。比較的「言いやすい先生」に退塾の話をする。もう、寂しさと怒りと悔しさで何も考えることができなかった。精一杯のやせ我慢で、何とか自分を恬淡とした境地に引きずり込もうとした。

ここに書いた事例はごく一部である。中学時代にはあんなに信頼してくれて慕ってくれた生徒が、何も疑うことなく素直についてきてくれた生徒が、まるで別人になったようにドライな感じで去って行った。また、高校から入ってきて、授業に感激してくれて、その後もコミュニケーションを取っていた生徒が突然電話1本で辞めていく。俺が今までやって来たことは、毎日やっていることは何なのか。生徒や保護者と築いてきた関係は一体何だったんだ。何であいつらは、こんなに俺たちが必死でやっているのに簡単に裏切ることができるのか。俺たちのつながりは所詮、金だけなのか・・・。

少しでも気を抜くと、通ってくれている生徒たちにまで疑念の視線を向けてしまいそうになるほどだった。
ロカビリー * シリーズもの * 15:10 * comments(0) * -

長哀歌(7)

 気合は入っていた。指導の道のりは険しいだろうが絶対にやってやろう。そういう意気込みは全員持っていた。スタッフたちはそれぞれ受験勉強を乗り越えてきた経験があり、どうやったらうまく行くか、またどうやったらうまく行かないか、そういうものをお互いに交換しながら授業にあたった。

高2までは、予備校は盛り上がり、講師と生徒の関係も良かった。中学までとはまた違った悩みや葛藤を抱える彼らだったが、進学校でやはり経営できない勉強のことに関して頼れる大人が予備校にいる。そのことは彼らにとって大きな存在であり、学校の人間関係のこと、バイトのこと、部活のこと等の相談もよくしてくれた。外部から入ってくる生徒たちもいい子ばかりで、相乗効果は大きかった。
厳しく怒ったこともあまりなく、講師と生徒は友だち以上師弟未満のような関係だった。

しかし、高3ではそうはいかないだろう。志望大学がそれぞれにあり、特に国公立を志望する者は科目も多く大変な1年になる。目先の高校生活からは一線を画した厳しい自己管理に基づく生活が必要になる。割とアットホームな雰囲気で2年生まで来た状態から、講師も生徒もそういう空気を醸成して行けるか。いや、それをしないと大学受験は突破できない。まずは講師の側にその自覚が必要だった。


残された時間を考えると、高2までは課していなかった「予習」をさせることが必要だった。英語、数学、国語では予めその日の授業の予習をさせることにした。それまではただ予備校に来て、授業を受け、試験前に確認テストや演習を重ねる「中学生スタイル」を取ってきた。高3からの急激な「予習スタイル」慣れない生徒も出てきた。俺たちは当然、そういう生徒には改善を強く要求し、それが続くようであれば厳しく叱責した。

週に1回行われる英単語テスト。当時は「ターゲット1900」を高3全員に必携として、会社の専務がエクセルに入力し、ランダムに順番を変えられるようにフォーマットを作ってくれた。1周目は順番通りに出題していたが、週に100個をなかなか覚えてこない生徒が出た。時にはクラスの半数以上の出来がよくないこともあり、俺はそのたびに説教して、個別に呼び出して厳しい話をした。泣く生徒もいた。国語の授業でも、1週間にたった1題の文章の要約をして来ない生徒が多いということを嘆いていた。増田先生も俺と同じで、要約をやって来ていない生徒が多い時に説教している声が講師室まで聞こえてきていた。また、個別に呼び出される生徒もいて、怒られているシーンを見たこともある。

GWを明けたあたりから高3に変化が出てきた。よほどの事情がない限り単科受講は認めず、国立大学志望および理系は英数国または英数を、私立文系は英国を受講する生徒がほとんどだった。そのような中で、1人、また1人と講師室に来て、深刻な顔で「国語をやめたいのですが」と言ってきた。理由は、国語の要約や予習の負担が大きいということだった。それによって、学校生活との兼ね合いや他の教科の勉強に影響があるという。トータルで指導している側からするととても認められるような理由ではない。俺たちは基本的に辞めたいと言ってくる者を翻意させることはしなかったが、どう考えてもお前が国語を取らないとダメだろうと言う人間には話をした。しかし、どの高校生も講師室に来る時点で気持ちを既に固めており、こちらの説得には微動だにしなかった。集団で何かやっている時、こういうことには連鎖反応が起きやすい。1人が「やめることに成功」すると、迷いがあった生徒たちが僕も、私も、と一気に動き出す。

「あの・・先生、ちょっと話があるんですけど・・」

いつしか生徒がそう言って講師室に来るたびに、増田先生の表情が硬直し、顔が赤くなるようになった。高校生が国語をやめる旨を伝えに来るたびに感情を必死で抑えながら「そう・・うん、わかった・・」と答えた。直接増田先生に言いに来るのはまだいい方で、中には狡猾に直接の接触を避けて、増田先生がいない時に俺に言いに来る生徒、天本先生に言いに来る生徒もいた。俺や天本先生はそれを後で増田先生に伝えなければならなかった。「増田先生・・、あの、実はさっき○○が来て、今月で国語をやめると・・」。非常につらい時間だった。増田先生は唇を噛みしめるように「そうですか・・はい・・」と答えた。この時の増田先生がどんなに悔しくて残念だったかは察するに余りある。自分がやろうとしていることは間違っていないはずだという気持ちと、生徒にそれをしっかり理解させられなかった悔しさ、そして会社として収入源につながることや、予備校スタッフの士気に影響するのではないかという申し訳なさ。そういう気持ちがドロドロと交じり合っていたはずだ。生徒は国語をやめても他の科目は受講し続けるので、増田先生はそれ以降も「自分を裏切った生徒」と予備校で顔を合わせなければならない。

恥ずかしい話だが、俺は増田先生を絶対的に信頼していながら、あまりに生徒たちが立て続けに国語の受講をやめると言ってくるのを見て、当時どこか「疑った」ところがあったと思う。予備校単体での人数目標や収入にも気を配らなければいけない時だったので、心の何%ぐらいかは「増田先生、一体何やってるんだ!」という気持ちがなかったとは言えない。増田先生はきっと俺のそういう雰囲気を感じたに違いなかった。

この頃、増田先生は前国語担当だった石井塾長の自宅にまで行って相談していた。増田先生も、石井塾長の国語の授業がトップ校の連中にも受け入れられており、説得力のある授業だったことを知っていたからだ。増田先生は増田先生のプライドがあったはずだが、この際そんなものを捨てて覚悟を持って石井塾長に相談に行ったのである。その翌日、俺は増田先生に「どうだった?」と尋ねたが、表情は冴えなかった。「うーん・・結局、よくわからなかったんですよ。石井塾長は『いや、俺はただその場で読ませて、答え合わせしながら、この選択肢は変だよなとか生徒と一緒に考えるだけだったからなあ。それに比べれば増田先生の授業は丁寧だし、今のままでいいんじゃない?』って言うんですよ。ちょっとわからないですね。」

5月と6月は、生徒がよく動いた。そして夏期講習を迎え、秋にまた大きな変化が起きた。

ロカビリー * シリーズもの * 15:14 * comments(0) * -

長哀歌(6)

 それまでの何となくな高校部から、高2まで準拠に徹した高校部はうまく行ったと言っていい。しかし、やはり難しいこともあった。特に、複数の高校生を自習形式と質問で対応するクラスは、成果こそ出ていたが、講師、生徒双方の物足りなさが何となく教室内に蔓延していたのか、ポツポツと退塾者も出た。最初からいた生徒も、途中から入った生徒も自主形式の授業を重ねるうちに成績もよくなったので「これなら自分で勉強してもできる」と思ったのだろう。あと、やはり退塾の理由でしばしば聞かれたのが「授業がない」というものだった。夏期講習や冬期講習は、他の準拠クラスに混ぜて全体授業を試みたこともあったのだが、うまくいかなかった。

予備校を立ち上げた当初は高1、高2も学校別にクラス分けしていなかった。、偏差値70レベルから下は偏差値50未満までの高校生が混在していて、授業する側に迷いがあった。その時は、悩んだ末に教材や授業は「基礎レベル」にして、トップ校に通う生徒には復習と基礎固めということで理解してもらおうとしても「授業が簡単すぎるから」と言って英語の受講を辞める生徒も出てきた。こういう理由を言うのは、たいてい中学部からの持ち上がりの馴染のある生徒ではなく、高校で途中入塾してきたトップ校の生徒だった。俺も当時は20代で血の気も多く、また、こっちとしてもいろいろと考えながらやっている自負もあったので、どうしてもそういう生徒を許せずに大人げなく突っかかったこともあった。

さて、いよいよ増田先生と俺が高1から教えてきた生徒が高3になり、実質、2人にとって初めて手掛ける本格的な大学受験指導の年を迎えることになった。社長(石井塾長)、副社長(馬田塾長)はほぼ高校部から離れ、指導の方針についてもすべて俺たち高校部スタッフに一任された。増田先生、天本先生、俺の3人はいつも講師室で話し合った。どうやって大学受験を指導し、合格までサポートして行くか。頼りになるのは自分たちの受験生時代の経験や、予備校等で授業を受けた経験しかなかった。志望大学調査、クラスの分け方、授業の進め方、模試、教材の選定と作成、いつまでに生徒をどういう状態にしておくか。28歳の俺が最年長のチームは試行錯誤を繰り返した。

高3は能力別に2クラスに分け、上のクラスの英語が俺、国語は2クラスとも増田先生、数学は天本先生、下のクラスの英語を須藤先生、数学を天本先生で受け持つことにした。理科と社会までは対応しきれないので、当面は参考書や問題集を紹介しながら自学でさせる方針とした。

短期目標としては、模擬試験でそれぞれの志望大学の偏差値を取らせることを掲げ指導した。講師自身の研鑽のために、模試を行う時は生徒の受験監督をしながらスタッフ全員で担当科目を解き、採点してお互いに点数を報告し合った。

英語は週1回の単語テスト(100個)、授業では文法語法、5行程度の英文解釈、長文読解、英作文と総合的にやることにした。俺と須藤先生はそれぞれで自分の持ち授業の内容を考えたり抜粋したりしてテキストを作った。現代文担当になった増田先生が高3の1学期間で強化しようとしたのは「要約力」で、授業で扱う文章の要約を週に1回提出させるようにしていた。増田先生のことなので、相当いろいろと研究した結果の方針だったにちがいない。俺たちはお互いのスタッフの能力や努力をまったく疑っていなかった。

テキストは他の予備校と同じように「春期」「1学期用」「夏期」「2学期」「冬期」に分けて作成したが、これにも膨大な時間がかかった。もちろん、製本するに当たっては費用が掛かるのだが、そこは社長たちが快くOKを出してくれた。あまり校正もできずに原稿を出すので、どの科目でも授業準備をしている時によく誤植が発見された。

正直に言えば、スタッフ全員にとって、はじめての本格的な大学受験指導。高1や高2に担当科目を教えることとはまた全然違った感覚になっていた。若いスタッフたちは「やれるのか」という漠然とした不安と「やれるはずだ」という根拠のない自信がいつも交錯していたことだろう。俺はただ「えらい1年になるな」と覚悟だけはしていた。その時予備校には高3だけで40人近くいたと思う。その多くは、長い生徒は中学時代から、そうでない生徒でも高1から増田先生、天本先生、俺の3人に習ってきた高校生だ。お互いの信頼関係を疑う余地などどこにもなかった。

ロカビリー * シリーズもの * 16:25 * comments(0) * -

長哀歌(5)

高3はともかく、高1や高2に関して 「なんとなく高校部」だけは絶対にやってはならない。そこだけは外さないように授業形態を考えた。これまでの高校1年生、2年生の傾向は、数学の需要に比べて英語は相対的に低かった。前頁にも書いたが、英語は辞書を引けばなんとなくわかった気になり、危機意識が芽生えにくいからである。そしてまた、数学は塾の教材を使っても学習する単元の順番が大きく変わることはないし、内容が学校とずれることはない。難しくなった高校数学を、学校の先生がヘタクソの授業すればするほど、塾の高校数学の価値が上がる。それに対して英語は塾の教材を使用すると「学校の内容とかけ離れている」感覚が強くなりモチベーションが下がりやすい。

そこで高校部スタッフと話し合って決めたことは、高1と高2は、予備校近隣の学区トップ校、3番手校には「準拠クラス」をそれぞれ設けて、中学の時と同じように学校の内容に沿ってやって基礎を固め、高3では塾独自のカリキュラムでやっていこうということだった。その2つの高校以外からの生徒に関しては「混合クラス」に入れ、毎回自習形式による学習で、講師は机間巡視しながら質問に答えていくというスタイルにした。

英語の準拠は、高校の教科書を先取りする授業で、中学の時と同じように文法や構文の説明をしながら精読する授業。単語のテストも行った。中学と違い、高校教科書準拠の問題集は当時皆無に近く、ガイド等があったとしても引用率が異常に低すぎて使い物にならない。結局、ポイントの抽出はすべて英語講師(実質、俺1人の)経験によって行い、授業の最後には教科書本文の模範訳のプリントを配った。高校教科書の英文はやはり内容もよく、毎回予習して訳プリントをつくりながら感心していた。俺ももう少し高校の英語の教科書を一生懸命勉強すればよかったと思うほど、大学入試に必要な構文や文法、語法の宝庫だった。リーディングの教科書をある程度進めたら、今度は学校使用の文法教材を使って授業をして、できるだけ準拠クラスは中学の時と同じように手厚く行った。

増田先生の数学の授業の評判も良く、高校部の1年生、2年生はたちまち人数が増えた。普段は英数準拠で、試験前は自習室が自由に使える。自動販売機や休憩・食事スペースもあるので、高校生はかなり勉強しやすかったはずだ。その結果、特に3番手校の高校では定期試験で学年上位者も続出し、1位も出た。高校の長期休暇明けには教科書本文の和訳が宿題に出ることがあり、俺が作成した訳のプリントが高校内で出回り、近所のコンビニのコピーに長蛇の列ができることもあったという。訳のプリントで配慮したのは、直訳調にしたことと、B4ページ左側に1文ごとに番号を振った英文を載せ、右側に左の英文に対応して番号を振った和訳を載せたことだ。高校生にとっては至れり尽くせりの和訳プリントだったと思う。中学部からの持ち上がりだけでなく、評判を聞いた外部からの高校生の入塾もあった。中学まではライバル塾に通い、高校からこちらに通うケースもあった。

準拠ではない、複数の学校の高校生が通う「混合クラス」は、以前にもこのブログで書いたが、指導する側からすると欲求不満が溜まった。1コマ90分の間、各人が持参した学校教材を進めさせ、指導する講師はグルグル見回って、質問を受けるというスタイルなので「授業」というものがなかったからである。講義形式の授業でスタイルを確立してきた講師にとって、この形態は非常に苦しかった。今思えば、このスタイルこそ、自学力を高めるベストなものだとわかるのだが、当時、若かった俺たちには「単なる手抜き授業」にしか思えず、幾度となく自責の念に駆られた。数学担当の増田先生とは2人でよく愚痴を言い合ったものだ。しかし、そういう担当講師の悩みとは裏腹に、生徒たちの成績は良好だった。そういう良好な結果が出る度に、俺と増田先生は2人で顔を合わせ、首をひねりながら「こんなもんなのかねえ」と話した。講師の心情がどうであれ、生徒の成績が良好ならいいじゃないかと言われるかもしれないが、この自学形態の授業は当時、受けている高校生にも時々疑念を生じさせた。週に2回、半年も通い続けると「これなら自分でやるのと同じじゃん」という生徒も出てきて、簡単に欠席するようになり、辞めていく生徒もいた。体験生の反応を見ても、準拠クラスの方はほぼ100%気に入ってくれて入塾したのに対し、混合クラスの方は体験生の反応も微妙で、入塾率は半分ぐらいだったと記憶している。

高1、高2の準拠クラスは盛況、混合クラスも何とかやりくりでき、予備校の生徒は開校して2年ぐらいの間に100人を超え、大きな家賃や人件費を抱えながらも一気に黒字に転換した。
ロカビリー * シリーズもの * 16:10 * comments(0) * -

長哀歌(4)

 新しく開校した「予備校」は地域の中では大変立派で新しいビルの最上階にあった。廊下は広く、講師室も解放感がある。自販機も置くことになった。教室数も5つで、うち1つは自習スペースにしてハード面は万全の態勢にした。原動力は石井塾長のプライドであった。もうこれはどう見ても「塾」ではない。「予備校」である。中学を卒塾して初めて「予備校」に足を踏み入れた生徒たちはみな目を輝かせて驚き、喜んだ。子どもたちの姿を見て2人の塾長も満足した表情だった。

この頃、会社は拡大期の真っただ中で、2人の塾長は徐々に現場を離れて行った。予備校で高校生を本格的に指導するために、社内でも高い知識と指導力のある各校舎の室長クラスや看板講師を集めなければならない。結局、高校部予備校の主要スタッフは、石井塾長が高3現代文を、馬田塾長が高3英語と高2ハイクラスを、それから中学部の新規開講の校舎で凄まじい結果を叩き出した増田先生が高1と高2の数学、1度国立理系の大学に入学するも、医者を志して中退し、浪人をしながら講師をしていた天本先生が高3数学を、予備校スタッフ最年少の須藤先生が英語、それから俺はメインの英語担当として入ることになった。

全社的には中学生がメインの塾なので、高校部スタッフは「専属」というわけにはいかず、中学部との掛け持ちだった。スタッフたちにとって、これは相当な負担だった。高校生の授業の準備は、中学生の準備とはわけがちがう。中学部の校舎で柱となる先生が高校部に週に数回入るだけで、やはり中学部の校舎にも少なからず影響が出てくる。これは他人から指摘されるというよりは、高校部に入っている先生自身が気づくのだ。「ああ、何か、中学生の指導が薄くなってきてるなあ」というストレスが少しずつ出てくる。

2人の塾長以外のメンバーは主に高1と高2を担当した。しかし、ほどなく石井塾長は社長業が多忙になり、教務現場から少しずつ離れて行った。もう1人の馬田塾長も高3や高1、高2の上位高クラスを持っていたが、中学まで各校舎の信頼できる先生から教わっていた生徒たちには、馬田塾長の授業を受け付けない者も出てきてしまった。そういう事情もあり、予備校のスタッフは徐々に若手中心にシフトして行った。高校部の第一期の2人がいいスタートを切ったが、2期生、3期生はそれほどパッとした実績は出ていなかった。横浜の高校生は当然、地元の大学を志望することが多く、家から通える範囲の国立大学と言えばどこも合格が難しい。私立に関しては早慶上智レベルの大学はトップ校に進学した生徒の中でも志望する生徒自体があまりいなかった。

予備校ができて2年目あたりから、増田先生が完全に中学部から離れ、高校部専属となり予備校に常駐することになった。俺も予備校の近くの中学部本校の特進クラスを受け持つ以外は高校部にどっぷり入った。高校生指導の経験を振り返ると、この増田先生はスタッフで最も苦労した先生だったと思う。彼は俺よりも4つ年下である。地元の公立トップ校から一浪を経て国立大学に入学し、ほぼ同時にアルバイトとして入社した。増田先生は、履歴書にも面接でも「英語指導を希望」とはっきり言っていたにもかかわらず、どの塾にもありがちな「理数の先生不足」の会社都合で中学生の数学担当として採用された。

ユーモアがあり研究熱心だった彼は、1年目こそ試行錯誤しながら生徒指導に悩んでいたが、2年目に立地が悪く大苦戦していた校舎の数理メイン講師に抜擢され、その校舎を大いに盛り上げた。彼とはよく仕事の後食事をして、朝方まで生徒の話から指導法の話、哲学的な話までした。社長も増田先生を大いに評価し、社内全体でも自他ともに認める中学数学のエース講師となった。彼もそういう期待にさらに応えるように、指導研究に没頭し、一緒に校舎に泊まったこともあった。学生講師からそのまま社員になる人にありがちだが、増田先生も塾の仕事や会社の人たちとの関係に「はまって」しまい、大学にもほとんど行かないようになってしまった。

増田先生は能力が高く器用だったせいで、英語を希望したのに中学生の数学理科を担当させられ、そこから見事に会社を代表する指導者になった。そして今度は、高校生の数学指導、さらにはその後に石井塾長の後を継いで現代文、最後の方は古文や化学までも担当せざるを得なくなった。

俺や増田先生がみっちり教えていた中学生たちが高校生になるタイミングで、ほぼ完全に予備校の教務からは2人の塾長が離れた。俺と最年少の須藤先生が高1から高3までの英語を、増田先生は高1・高2の数学と高3国語、そして天本先生を高3数学に固定し、その他のオプション講座等には大学生講師の中から高校生指導を希望し、実際にその知識があると判断されたスタッフがスポットで入るようになった。

ここから、今でも忘れられない苦しい日々が始まった。
ロカビリー * シリーズもの * 18:49 * comments(0) * -

長哀歌(3)

 入社2年目(この時点ではまだアルバイトの身分だが)あたりから、俺も高校生の英語を持たせてもらえるようになった。とは言っても、高1や高2の英語である。高3は馬田塾長が引き継ぐという感じだが、やはり教えているうちに生徒たちに情が湧き、内心「どうせなら高3まで教えたい」と思っていた。

当時は塾拡大の時期で、市内に5校舎を構えていたが、やはり小中学生メインの塾が高校生も教えるとなると負担は大きく、スタッフもそれができる人が限られてしまう。そのような事情もあり、高校生は2つの校舎のみで実施していた。

高1や高2の英語教材には頭を悩ませた。市販のものや高校用塾教材も決して悪くはないのだが、どれをテキストにしても「学校進度」と「単語の壁」があり、学区トップ校から3番手校ぐらいまでのレベル差がある生徒が混在している中での運営は難しかった。高校生を教えて最初の1、2年はとにかく高校生に英語を教えること自体が嬉しくて、「授業をやること」「自分が持っている知識や技術を生徒に紹介すること」に満足していた。つまり、実際に生徒たちに力がついているとか、大学受験から逆算した、高1・高2の段階での戦略等はまったく頭になかった。ただただ、高校生に高校英語を教える満足感だけだった。しかし、高校生の反応は微妙だ。中学時代の生徒の持ち上がりが多い中で、入社したばかりの俺にとっては初めて教える生徒ばかり。そういう意味では新鮮でいいのだが、数か月もすると授業をしながら生徒たちの「倦怠感」が伝わってきた。ある生徒にとっては「学校の内容と関係ない塾の授業」という気持ちがあったかもしれないし、ある生徒にとっては「難しすぎる」「簡単すぎる」等の気持ちがあったかもしれない。

予習を一切させず、その場で辞書を引かせて英文を和訳させ、その後に解説するという授業だったので1日にあまり進めることもできず、時期によってクラスによってはとてつもなくダルそうな雰囲気の中で授業をすることもあった。それでも当時の俺は何とか英語の構造を理解させ、英文法の面白さを感じさせようと授業をしていた。幸い、当時の高校生には俺の英語の授業を途中で辞めて数学だけにするような生徒はほとんど記憶にない。この結果だけでも俺は幾分安心していた。

高校生の人数も増えていき、それに伴って、高1や高2を教えるスタッフも俺のほかに何人か増えた。しかし、どの先生も高1や高2の下がりがちなモチベーションを上げることに苦労していて、何度か相談を受けたこともある。そんな時、ある事件が起こった。

俺が高校生を教えていた2つの校舎のうちの1つの高2数人が、高3に上がる前の3月に退塾したのだ。退塾したのはいずれも学区トップ校の高校生女子で、彼女たちは高校から塾に入ってきた外部組だった。俺は実質、1年間その生徒たちを教えていたが、真面目で出席率もよく、授業にも満足しているように思えた。俺は例によって高3では受け持たないだろうから、彼女たちには馬田塾長の下でも頑張ってほしいと思っていた矢先の出来事だった。

数学を担当していた石井塾長から連絡が入り、その日の夜話をすることになった。俺は突然の退塾の理由がわからず石井塾長に尋ねた。一体、何かあったんですか、と。俺が一番気にしていたのはもちろん、俺の授業に対しての不満等であったが、もしもそれがあるならば、俺が高2内容を終了する前に辞めていたはずである。実際、辞めた理由はそれではなかった。

石井塾長は明らかに怒りをにじませた表情だった。辞めた高校生たちは、表向きは家庭の事情やら、自分で勉強するやらという理由だったらしいが、中学部から持ち上がりの在塾生は少し前から辞めた高校生たちが塾で話をしていたのを耳にしており、その理由も聞いていたようだ。

退塾した高校生たちが言っていた理由とは・・・

「こんな小さな塾じゃあ、大学受験はやっぱり不安だもんね」

石井塾長はそれを聞いて激怒していたのだ。この夜、石井塾長は怒りの感情を俺の前で必死で抑えながら、眼光を炯炯と光らせて俺に言った。

「ロカビリー先生、うちの高校部、今度移転しようと思う。もう二度と『こんな小さな塾は不安だ』なんて言わせないからさ」

地域の高校生、特にトップ校の生徒たちの多くは大学受験専門の大手3大予備校に通っている。退塾した生徒たちも、高2の後半あたりから周囲の高校生の動きが気になったのだろう。俺はこの時まだバイト2年目ぐらいで、石井塾長と同じ温度で怒りや無念さを自ら感じるほどの思い入れがなく、ただ、塾長のそういう感情を受け止めようとしていただけだった。

とにかく、このときの高校生の退塾が石井塾長のプライドを傷つけたことは間違いない。経営的にはリスクが相当高かったにも関わらず、保証金(1千万)、家賃(月70万円)ともに巨額な資金を投じる決断をさせたのは、石井塾長の怒りと意地だった。
ロカビリー * シリーズもの * 17:26 * comments(0) * -

長哀歌(2)

 
「高校生は英語への危機感が薄い」

俺が入社したときは(当時は大学生でバイトからだったが)、高3に2名在籍生がいて、高2、高1とそれぞれ少人数が中学の延長で通っていた。まだ本格的な高校部というほどの規模ではなく、2人の共同経営者のうちの1人が数学(当時で言う兇泙如砲塙餮譟聞餮譴蝋3の現代文のみ)、もう1人が英語を教えていた。数学と国語の担当を石井塾長、英語担当を馬田塾長としておく。

石井、馬田両塾長ともに私立文系の大学出身だったが、石井塾長は高3まで国立理系に在籍していたという経験でこのような役割分担となったようだ。この当時はまだ映像授業なんてものも一般的ではなかったので、塾の高校生たちは英語、数学、高3現代文以外はすべて独学ということになる。

俺は高校生の英語を教えたいと面接でも言っていたので、馬田塾長の英語の授業を見せてもらった。教材は日栄社のものや、ビジュアル英文解釈などを使っていた。数行の英文を訳させ、解説。単語テスト等のいわゆるテスト系はやっていなかったようだ。

石井塾長の数学は高校用の塾教材の問題をその場で解かせて解説というオーソドックスなもの。同じくもう1人の塾長が教える高3の現代文なんて、毎回大学の過去問をコピーして、その場で解かせて解説という超シンプルなスタイルだった。

高3の2名は1人が中学時代からの在籍(1期生にあたる)、もう1人はその生徒が高校(地域公立トップ校)で知り合った同じ部活の生徒で、高校からの外部入塾。実は高校部に参加していた生徒は他にもあと数名いたようだがやめてしまったらしい。

大手予備校で錚々たるスーパー講師たちの授業を受けた俺にとって、失礼だがこの塾の高校生への授業は「こんなので大丈夫なのかな?」と思った。

傍から見ていて、2人の塾長の授業に対する生徒の支持率は、石井塾長が圧倒的に上だった。高校生はだいたい「数学」でつまづく。中学時代とまったくレベルが違ってしまうからだ。一方、英語も難しくなるのだけれでも「辞書」があるので、自分で調べながらやっていれば数学のように「全然わからない」危機感は薄い。そういう科目の特性もあるのだろうかと思ったが、それでも生徒たちの様子や動きからはそう感じた。

高校生は単科受講を認めていた。そうするとやはり「数学だけ受講」という生徒が途中からチラホラ出てくる。もちろん、英語担当の馬田塾長はおもしろくなかったであろう。彼らは決して「英語を切る」ほど英語ができるわけではないのだから。ただ、確かに馬田塾長の授業はいつも平坦な感じで地味ではあった。そうでなくても英語はなかなか高校生に「おお!ためになった!わかった!」という破壊力のある感動を数学に比べると与えにくい。

不思議だったのは石井塾長の高3現代文の授業だ。先にも述べたように、過去問をコピーしてその場で生徒に問題を解かせ、解説するスタイル。俺は石井塾長と一緒にいることが多かったのでよく見ていたが、1回の授業準備も30分ぐらいしかかけてなかったと思う。つまり、その日の授業で扱う文章をコピーして、自分で解いて、答えを確認する。ほとんどそれだけだった。そんな授業なのに、高3たちは馬田塾長の英語は受けなくても、石井塾長の現代文だけは受けるという生徒もいた。さらに、高校部は中学部から上がった生徒だけではなく、高校からの外部入塾も認めていたのだが、トップ校から入ってきた高校生が、最初は英語と国語を受けていて、途中から英語を切って国語だけを受けるというケースもあったのを考えると、石井塾長の現代文の指導スタイルにはそれだけ「何か」があったのだと思う。俺は残念ながら、いかに石井塾長と言えども、俺が受けてきたスーパー講師のような授業をしているはずもないだろうし、当時は現代文指導にはまるっきり関心がなかったので、石井塾長がどのような授業をしていたのかは知らない。今思えば勿体ないことをした。後に時間講師となった石井塾長の現代文を受けた元教え子の話では、「石井先生の国語で覚えているのは、選択肢の判別で、あまり細かい分析をすることはせず『この選択肢は不自然だろ?どう読んでみても。』と言っていたことです。最初は何だよその判断根拠は、と思っていたのですが、いつの間にか自分も自然化不自然かという理由で判別するようになっていましたね」ということだった。うーん・・ますますわからない(笑)。

ちなみに、1期生の高3の2名は1人が中堅私大のAに、もう1人が難関私大のKにそれぞれ現役で進学した。塾長2人ともに前述のような手探りの指導の中、この結果は不思議なぐらい上々だったのではないかと、今考えてもそう思う。
ロカビリー * シリーズもの * 15:02 * comments(0) * -

長哀歌(1)

 俺は以前のブログで、俺が高校部をやらない理由を「才能がないから」と書いた。これについてもう少し詳しく書いてみたい。

中学生専門の塾ならば、生徒と講師の信頼関係の下で高校受験を乗り越え、子どもたちはいい形で塾を卒業して行く場合が多い。その後、塾に遊びに来たり、高校での悩みを打ち明けたりして関係が継続する場合もあるだろう。そんな中で、特に高校の勉強に行き詰まった元塾生たちの、あるいは元保護者たちからの「先生、高校生もやっていただけたら・・」の声は、塾講師の心を大きく突き動かし「高校部開設」の運びになることはごく自然な流れであるとも言える。高校入試時期のあの苦しくともどこか心地よくさせ感じる充実を、合格発表後のあの何事にも代えがたい感動と感謝の気持ちをずっと持ち続けていたいと思う。そして3年後の大学受験ではこの何倍もの感動を味わえるはずだという期待が膨らむ。そこに生徒も塾講師も疑う余地はまったくない、その時は本気でそう思う。

俺が23歳から30歳まで勤務した横浜の塾もそのような流れで高校部ができた。3月の発表の後に、あまり間隔を開けずに「高校準備講座」を開校すると、在塾していた生徒の80%、多い年などは90%以上参加する。高校入試が終わり一瞬の別れを味わうが、センチメンタルなドラマはすぐに新鮮な希望に変わっている。生徒と塾講師の信頼と感謝100%状態を維持したままで4月を迎えることができるのだ。

これから書く内容は、俺が26歳から29歳まで、高校生の指導をメインにしていた時の話である。例によって非常に濃い経験をしたわけであるが、その若さ故に怖いもの知らずで思い切りぶつかることもできた反面、その若さゆえに硬直的に突っ込んで心が粉々に砕かれそうにもなった。

この経験をして間もなく塾の仕事をしばらく離れるわけだが、自分の塾を開くとき、最初から高校部の構想は除外していた。そしてまた、卒塾生やその保護者から要望されても、やわらかい表現を選びつつ固辞してきた。高校生を教えるやりがいの大きさや合格した時の歓喜の大きさは確かにある。しかし、俺が20代でした経験は、最後に高校生を指導した時から10年以上たった今でも「二度とやることはない」という気持ちが揺るがないほど強烈なものだったのである。

たった3年程度の期間の話を、できるだけ丁寧に記憶をたどって書こうと思うが、いつものように構成をまったく決めないまま書き始めるので、タイトル通り長くなることをご容赦いただきたい。
ロカビリー * シリーズもの * 16:21 * comments(0) * -

訪問記―5(居酒屋トークと旅の終わり)

 個別指導が終わり、俺はそこでコウタロウ君と別れの挨拶をした。その後は猫ギター先生と塾を出て、船で本土まで渡った。そこからタクシーで移動し、カウンターだけの中華料理屋さんでおいしい料理をご馳走になった。猫ギター先生は正午過ぎからの授業で夜までぶっ通しだった。その間、何も口にされていない様子で、もしかしたら俺がいたから気を遣われたのではないかと申し訳ない気持ちだった。

その店を出て次の居酒屋まで、2人で夜の海沿いを話をしながら歩いた。俺が書いたブログのいくつかの内容に触れてくださり、温かい言葉をたくさんいただいた。

居酒屋ではウーロン茶とビールで乾杯し、そこからは時間を忘れるほどいろいろな話を楽しんだ。俺は今回の旅で、猫ギター先生に必ず言おうと思っていた2つのことがあり、それは忘れないうちにお伝えした。それから、俺はこの日はじめて会ったコウタロウ君から感じた凄さを、猫ギター先生にどんどん語った。もちろん、お互いの塾のスタンスや思いの話もした。お互いにふだん孤独を感じながらやっているからこそ、多くを語らずとも、少しの言葉で分かり合えることがある。その後話題はさまざまな方面に飛び、小説と映画の楽しみ方の違い、黒沢明「七人の侍」がなぜ面白いか、大島渚の映画のわけのわからなさ、ラストエンペラー等の映画の話はすごく興味深かった。また、kamiesu先生、赤虎先生、gen先生その他、ブログやツイッターを通じて知り合った先生たちの話題でも盛り上がった。kamiesu先生はたぶん自分たち以上の毒舌家だが、ブログの読者やファンはお母さんや女性が大変多い、赤虎先生とgen先生は過去の恋愛マスターぶりをツイッターでつぶやかれている、猫ギター先生はあれほど下ネタも炸裂させるのに下品さがなく、熱狂的な女性ファンが多い、そうするとやっぱり俺だけが女性にさっぱり支持されないブログだ等(笑)、とても面白かった。さらに、実際会ってみて意気投合したケースや、逆にがっかり落胆するほどつまらなかったケースという際どい話題にまで発展した。

猫ギター先生とは実際にお会いしたのが3度目、それ以外に何度かメールや電話で話をさせていただいたことがあるが、特に実際にお会いしてみてあらためて感じたことがある。このような分析じみたことを書くのは傲慢で、猫ギター先生に対して大変失礼かもしれないが、俺が感じたことを書いておきたい。

まずは速くて鋭い感知能力と情報を取り込み、それを処理する超高速機能。これを感じたことは何度もある。たとえば、猫ギター先生がはじめて俺の塾に訪問された時、俺の気が利かず先生を事務室に座らせたままにしてしまった。猫ギター先生には後半、話をしていただいたが、途中、教室を回られることもなく事務所にずっと座られたままだった。にもかかわらず、後日、ブログで俺の塾の細部まで正確にご覧になられていたのを知って驚いた。また、2度目の俺の塾への訪問で、kamiesu先生と一緒にいらっしゃった時、kamiesu先生の授業が「はじまってすぐ」に猫ギター先生が「これはすごい導入ですね」と仰られた。正直に言えば、俺はまだその時点では「感想が出てきていない」ほど、本当にはじまってすぐの場面だった(俺はその数分後に感じ取った)。その他で言えば、たとえば、猫ギター先生が誰かのブログに対して「あのブログはすごい」と仰られるとすると、その時、俺は実際に読んでもあまりピンと来ないこともある。自分の心身が反応していないのに同調することはできないし、それは猫ギター先生に失礼でもあるので、「そうかなあ?」ぐらいの感想を持っている。しかし、1週間、3週間、数か月すると「ああ本当だ。これか!猫ギター先生が仰っていたのは。」と感じるのである。とにかく、本質を見抜くスピード、情報を取り込むスピードがとても速い。

あとは、さきほどのことに関連するが「発掘する能力」だ。猫ギター先生はブログの中に登場する素晴らしい卒塾生たちとの出会いに対して、たまたま素直でいい子が集まってくれたと書かれている。しかし、今回のコウタロウ君を見てもそう感じたが、確かに彼は、それは聡明で立派な青年だった。彼の「今の姿」を見れば、浅はかな考えで「俺もこんな生徒に出会いたい」などと軽々しく思ってしまう。しかし、もし俺がコウタロウ君に6年前に出会ったとして、その時点でこれほどすごい男に成長すると確信が持てたかといえば、自信はない。言い換えれば、彼らは猫ギター先生に見いだされなかったら、才能や人間性までも殺されていた可能性は低いとは思えない。

特に、人間の「純粋な部分」への鋭い反応には今でも驚かされる。自分の例で恐縮だが、俺も結構長くブログなどにいろいろ書いているが、いつもいつも自分の100%以上のほとばしる思いで書けるわけではない。時々、嬉しい反応をもらったりすれば、無意識に下心が出てしまい「いいことを書いてやろう」とか「こう書いたらちょっと感動的かな」などというカッコつけて気取った思いがチラっと出てしまうことがある(しつこいが無意識にだ)。そういう文章を書いたとき、だいたい猫ギター先生は何の反応もされない(笑)。しかし、とにかくグツグツと溢れて爆発してしまいそうなほど、感情だけに任せてキーボードを叩き込んだときの文章には、それがどんなに文章として技巧的にメチャクチャであったとしても、猫ギター先生は必ず反応された。文章に対しても、人に対しても、そういう精確なセンサーをきっとお持ちに違いない。

もう最後にするが、あとは信じた人間に対する愛情の深さ。ここ数か月、猫ギター先生のブログの性質は少し変わった。これまではあまり塾の生徒のことを書かれることがなかったが、最近はそれはもう見ている側が気持ちのいいぐらいべた褒め、絶賛されて書かれる。それは本当に心からそう思われているからであり、実際にコウタロウ君とのやり取りを見ても十分に感じられた。イチロー、石川遼、横峯さくら、亀田兄弟など、一流アスリートの父親たちは恐らく、子どもが小さいころからベッタリと英才教育を与え、たとえ周囲から顰蹙を買い、変人扱いされようともまったく意に介さず、子どもの才能と将来の成功だけを信じてやってきたのだと思う。猫ギター先生の姿もまさにそういう感じだった。

5回にわたって書いてきた猫ギター先生の塾への訪問記をこれで終わりとしたい。今回、きっと楽しみにされている読者の方も多かったと思うので、できるだけ自分の記憶に忠実に書いたつもりである。画像などがあればもっと楽しめていただけたかもしれない。しかし、俺は学習者として未熟なのか、きちんと見ておきたいと思うものに関して、見ながらメモを取ったり録音したり、写真に収めたりすることができない。それをやってしまうと、気が散って記憶の中の映像や音がどうしても薄く霞んでしまう。集中して自分の目と耳から一瞬も切れない映像と音を入れて、記憶に焼き付け、それだけを手掛かりに文字にしただけであるから、もしかしたら、会話の詳細な言葉など一字一句までは正確ではないかもしれない。そこはどうかご容赦いただきたい。

猫ギター先生には、土曜日のハードワーク後のお疲れのところ、また、実は翌日(日曜)も朝早くから高校生の授業が長時間あったにもかかわらず、深夜までお付き合いいただいたことに対して、あらためてお礼申し上げたい。本当に忘れられない、いい旅になった。ホテルの前まで送ってくださり、そこからしばらく街全体が寝静まった尾道には、猫ギター先生の歩く足音だけが響いていた。俺がホテルの建物に入る直前に見た猫ギター先生の歩く後姿は、侠客、座頭市の勝新太郎だった。
ロカビリー * シリーズもの * 13:15 * comments(0) * -
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